2012年8月21日火曜日

大和と倭冦〜国家主義という病にいたる道〜


日本では境目も無くなったが、元は異なった考えの集団。
倭冦と大和。

1)アジアの衰退逃亡王朝の受け皿。大いなる農耕融和の国、大和。

4000年の黄河文明の歴史において、大陸ではどれだけの数の王朝が樹立しては滅ぼされ刷新されて来たのだろうか?大陸では前王朝の文化はことごとく粉砕破棄され伝統も根絶される。一方、海の向こう日本は渡来文化が緻密に混ざり合い残留する
日本はアジアにおいて極めて特殊な国だ。
 1)南米のメスチソの様な混血性の色濃い人種の特殊性 
 2)大陸では失われてしまったアジアの伝統文化が今も残る特殊性。などだ。

その混ざる特殊性は縦の軸(時間的な軸)だけではない、東南アジア全体の横の文化の残留さえ感じさせる。加えて、地理的な不思議さ、プレートの交錯する火山列島であり、恐らく古来は劣悪な居住環境にあったと思われるような、禁断の地的な特殊さ(悪く言えば巨大な、島流し先的な印象)我々の意識の中に眠る、言いようの無い、中国、韓国に対するコンプレックスと、被害者意識、嫌悪は、そういった歴史的背景があるのでは無いか?日本は、アジアにおいて、衰退逃亡王朝や民族の受け皿的な役割を持ち、そういった成り立ちの中に、前述した意識の根がある。また、土地に対す嫌悪は色濃くても、何故か望んで来る者は拒まず受け入れる不思議な資質。
そういった、大陸からの度重なる渡来者たちの交流から、大和は誕生した。

 大陸の側の人々にとって、大和的な文化や伝統には、何故か、不思議な懐かしさや祖父祖母に感じるような、安堵感を感じ親しみを持っているはずだ。何か、許しを得れる巨大な母性のようなものを、日本文化に感じるアジアの人々は多いと思う。これもまた、成り立ち、歴史によるところが大きいのではないか?「大陸で暮らせなくなっても、日本に渡ればやり直せるのではないか?」みたいな感情もあるかもしれない。また、大陸の側から見れば、一方で島流し先的にも見えるが、流れて来て暮らす、かっての衰退王族側から大陸を見れば、自らを偉大な役目を担った末に辿り着いた雲上の地から、下界を眺めるような、プライドと正当性を持ってしまう部分もあるのかもしれない。そういった事をふまえると、大陸の権威者達の日本への警戒感は、単純に、軍国主義(その実は倭冦的な海賊略奪主義)に対するものだけでなく、長い歴史の中で葬り去る(あるいは脱ぎ捨てて来た)ものへの絶妙な後ろ暗さもあるのかもしれない。
 欧米は明治開国時、第三のヨーロッパとして大日本帝国を建国させるにあたり、緻密な計算が有り、その特殊な融和性、歴史的プライド、大和と別に残存する倭冦の存在。を最大限利用し、アジア進出の揺るぎない足がかりとして日本の開国を進めたのだと思う。

2)西洋とは別に育まれた、国土を持たない、自由主義の芽、倭冦

 国土を持たず、複数部族で民族的な統一は無く、東南アジア、東シナ海に勢力圏とし、海冦(海賊)を生業としていた倭冦。略奪先は大和朝廷であり、高麗であり、中華であった。元の来襲時に大和と深い提携関係を築いた。朝廷軍からすれば神風という事にしておきたい、台風による元軍の殲滅も、実際は倭冦の戦略だったはずだ。歴史には描かれない事実の裏に、元寇を撃退したのは、事実上倭冦であり、台風は戦略の一部(計算の一部)でしかない。その事実は、朝廷の権威を著しく害うので、大和としては倭冦の協力、功績を表だって認めるわけにはいかず、神風としたのだ。しかし、その後、大和は倭冦との提携関係を強化し、主力部族とは融和も進めた。事実上、海冦(海賊行為)を黙認する形をとった。幕府は表向き、討伐軍を派兵したりして、明国への体面上は倭冦を認めていなかったが、裏では完全な提携関係にあった。この関係性は、ヨーロッパの王朝とパイレーツ(海賊部族)との関係によく似た状況だと思う。
朝鮮、中華の日本に対する、嫌悪の根はこの時期に形成されたのかもしれない。

 その密な関係性は安土桃山時代まで続き、秀吉の朝鮮出兵をピークとしている。当時、明国は長年悩まされてきた、この、倭冦対策を強化し、海軍力増強し東シナ海における権益を取り戻しつつあった、倭冦は追い込まれていて、豊臣秀吉と提携し、利権回復を試みた。結果は大敗である。敗戦後、秀吉は一切の敗因を倭冦に押しつけ、明との国交回復のため、海冦禁止令を出した。戦果はあがらなかったが報償を求める倭冦系の武将達。後の徳川による、鎖国政策の理由はキリスト教の脅威よりは、むしろ倭冦の封じ込めにあった。倭冦主力勢力に報償として、地、米と所領を与え、一方で有力武将の配下に倭冦の残留部族を押し込み、衰退傾向にあった、倭冦からその活動基盤を完全に奪い去った。
 倭冦は自由の民である側面が強く。倭冦の側から見れば、中華王朝も朝鮮王朝も大和朝廷も、狡猾で支配的な農耕王朝であったであろう。保守的で安定支配を目指す人々とは、また、全く違う考え方や、部族伝統を持っていたと思う。その合理性は、ピューリタンの自由貿易指向と合うはずであった。鎖国の最大の目的は、新興勢力である、オランダ、英国などのピューリタンと倭冦の親交を断絶させる目的もあったのではないか?幕府の鎖国政策の真の主旨なのではないか?そしてその政策は、幕末に一気に崩れ去った。幕末期、所領を得ていた倭冦の末裔は、急速にピューリタンと接近、親交を深めた。
明治維新である。

 明治維新において、尊王攘夷は完全に失敗に終わり、大和武士は社稷を守ることができなかったのだ。明治維新は倭冦、欧米連合の勝利であり、大和の敗北滅亡を意味している。最大の敗因は、幕府内部に倭冦、欧米連合の工作者がいたことであり、彼らは開国近代化にあたり国家主義の必要性から、国家という西洋的な統一認識を作り出した。維新後、明治政府に任官している。日本は明治開国時ヨーロッパにより造られた国であった。倭冦の末裔にとっては、大和(日本)も韓国も中国も、同じ略奪対象でしかなく、恐らくは、欧州列強と密約を結び、日本の支配権獲得を確約されての、大和乗っ取り、傀儡政府の樹立であった、その後、全く同じやり方を日韓併合、満州国樹立時に行っている。最初の成功例が大和だった。
 アジアにおける利権拡大のために当初、欧米は倭冦傀儡明治政府の後ろ盾として第三のヨーロッパとして日本帝国樹立を全面支援していたが、倭冦は密約を破り、東シナ海において欧米と利権獲得で全面対立するまでになった。これが太平洋戦争勃発の原因であった。

 戦後体制の基本は密約時に戻し傀儡政府をより強固に欧州化することであったが故に、傀儡天皇は残され、英国王室との関係をより強固にし、欧米と大和の融和が宗教的にも画策された。例えば、司馬遼太郎が明治維新を肯定的に解釈する最大の理由は、西洋とは別にアジアに独自に産まれた自由主義の芽である、倭冦に共感する部分が大きかったのかもしれない。ただ、その自由は、略奪主義と表裏であり、現在はむしろ、自由の恩恵と裏腹に弊害が日本を蝕んでいる。
自由はその実、裏は利権主義なのだ。

3)名残は残るとしても、完全に融和した、大和と倭冦と西洋。

 仮に天皇が傀儡だったとしても、その構造の土台は大和である。明治以降行われた、西洋との融和も、画策されてから144年の月日が立つ。自分の感じ方を例にあげれば、小学生ぐらいの頃から、特に宗教を信じるとかでは無いが、何故か神様と言われたら、キリストを連想するようになり、中学高校をへて、気がつくとまるで自らの容姿を顧みず、西洋人の様なつもりになっていた。自分。というのが本音だ。全ては教育によるものだと思う。近代化における複雑な事情が、今なお、深く影を落とす日本。自由とはその実、裏は利権主義。政府と言わず、個人と言わず、その、思考の隅々に至まで染み渡り、その血が国土荒廃に疑問を感じても、思考が出口を塞いでいるのかもしれない。