2011年11月30日水曜日

血の中のアジア


先に書いた、「金」奉る国の続きみたいな感じですが、コラムを書きました。

前回のコラムでも書いたけど、かつての、朝鮮や中国への侵略は、本来は『大和(天皇制秩序)』の考え方ではない気がする。何故なら、大和の起源が、朝鮮や中国にあることと、元となる大和族の気質が『西に背を向け東(太陽)へ向かう稲作定住型の部族』であるからだ。過去に、朝鮮や中国(つまりは大和や弥生文化をもたらした邪馬台国などがその中国や朝鮮から来た大和)に侵略された民俗(本来、九州中心にいた海洋民俗)による傀儡大和(天皇制を利用した例えれば、満州国のような)明治政府の考え方なのだと思う。九州中心にいた民族は、倭冦と呼ばれ、厳密には、その拠点を九州のみならず、朝鮮半島、遠くはマニラ、に至まで、勢力をひろげ、歴代の中国、朝鮮王朝と激しく対立していた、『海の民』であり、現在、その民族の一部は日本に帰属したいるが、台湾、朝鮮、中国南部、他、様々な国にも分かれて帰属して、今は完全に融和している。

日本とアジアは、きちんと『アジア史』で解釈しないと、正しい認識には至れないほど、中国や、朝鮮と密接な関係に有るのだ。
秀吉の朝鮮出兵は『王を超える立場』を求めてのものであった。例えれば、課(日本国を束ねる大和)課長(の天皇の立場)から部長(朝鮮半島、日本列島を束ねる皇帝として、明の皇帝と対等な立場)を求めたのである。それも課長(の天皇の立場)の考え方では無かった。
元々、中国を頂点とする、アジアの秩序とは、『下克上を基本とする、中華思想』を元にしており、中国も、少数民族や他民族による王朝や支配も、あるわけであり、それが義にかなえば、『天の意』として、受け入れる思想があるのだ。倭冦の起源にあたる人々の中には、そういった世界を生きて来た、中華の郡族(中にはかつて王朝を築き上げた部族の末裔もいた)を元にしていたのである。同じ、中国、朝鮮を起源にしていても、大和と倭冦は全く違う部族であり、大和は『西に背を向け東(太陽)へ向かう稲作定住型の部族』であり、倭冦は、『西へ南へその勢力を広げる狩猟型(バイキングである、海賊、ヨーロッパに近い感覚)思考の海の部族』だったのである。今は、そんな様々な民俗が、解け合い、この国のややすると、一筋縄ではいかない『特性(民族性ではない)』を産み出している。侵略された者の血も、大陸を追われた者の血も、意識的に東へユートピアを求め旅立った者の血も、南から、クジラを追い辿り着いた者の血も、深く混ざり合っているのだ。大和という古い部族を起源とする、秩序は、まだ、今の様に混ざり合う以前に『意識的に東へユートピアを求め旅立った部族』により創られた『秩序』なのだ。


実は、漢人や、朝鮮人も混成民族であり、日本人同様に、流入してくる様々な部族と解け合い、成立っている。『地の営み』をそのまま『血』が背負うだけで、生物学的には、漢人、朝鮮人、日本人、は全く同じ、混成モンゴロイドである。一見、矛盾して見える対応と感情なのだが、例えば、中国や朝鮮の人達は、侵略的な日本の資質に多大な嫌悪と警戒を持っているけど、『日本の天皇』には、そういう感情を抱いていないよ、聞いてみれば解る。「え?なんでだ?」と、思うかもしれないが。彼らは明治政府が『傀儡』であったことをよく認識しているはずだ。彼らが嫌悪し、警戒するのは我々の血の中にある、『倭冦』の部分なのだ、それとは、もっと古く、長い、対立の歴史があって、それに根ざした『警戒と嫌悪』なのだ。彼らが学ぶアジア史や母国史にも、我々が学んだのとは違う意味で、同様に偏りが完全に無いとは言わないが、彼らの学んだアジア史や母国史を知れば、先に書いた対応には、何の矛盾も無いことが解る。
今や、完全に解け合って、自分の血の中には、両方、ないしは、もっと多くの血が混ざり合っている。それは、なんかメーターの針みたいに、ある時は『倭冦』の資質(とても、合理的で、ヨーロッパの考え方に近い)方に振れたり、あるときは、ものすごい古い記憶のように、『大和』の記憶の方に振れたりもする。どちらにも、良い部分と、悪い部分があるけど、バランスが取れるなら、この血の中の『選択肢』をとても、誇りに思うし、可能性にも満ちていると思う。それは、日本人だけでなく、同様に漢人や朝鮮人にも、入ってるんですよ。『倭冦』が解け合ったのは、あるいは、その起源は日本だけでは無いのだから。大和の民(部族)も、大陸から渡って来たのだから。

2011年11月28日月曜日

「金」奉る国。




ドイツかどっかで、お金を使わないで暮らす実験(?)してる人がいたけど、netや携帯使うだけで、お金使うことになるから、それも、使わないんだろうかと思う。労働や物の「物物交換」では暮らせても、その土台には、勝手にお金使うシステムが暮らしの構造土台になってるから、間接的には使わざるを得ない。労働の対価で、どこかに泊めてもらえても、その、泊めてもらう先は、その構造の中にいるから、お金使って、家に住み、光熱費払い、Networkにも金を払っている。これは、変な話。浮浪者ですら、もらったものであれ、拾ったものであれ、お金使わないと生きていけないのである。

ところで、かつて、お米というのは、律令体制以降の、「宗教と秩序」の国内普及のために、天皇制(大和秩序)手動で始まったことでは、あるけど、交換の媒介に、お金ではなく、「お米」をおいた(石高制度という独自の経済構造)は、世界でも珍しい考え方で、おもしろいとは思う。このルールに同意した様々な生活形態の人達(コミュニティ)が契約により天皇制(大和秩序)に属して(歴史に言う被支配とは少し違う、主権を委ねたというよりは、ルールを受け入れただけ)この国(?)は成立していったのだ。そもそも、農民はイコール百姓ではなく、税金は対価交換として、様々な生産物や、収穫物が、「米」と交換されるしくみはユニークで、実を伴い、各地で受け入れられていった。流通の促進そのものが「米」を中心としていたのだ。であるから、米は一時期、完全に貨幣となる部分と、同時に、庇護や社稷を奉るための、捧物の両方の意味合いを持っていた。争いを避け、庇護を受けつつ、様々な恵みを物物交換するための、大切な媒介であった。だから、日本が稲作を中心とする文化であるとするのは、間違いで、元々、様々な多様な生活形態や豊かなで高度な商工業従事者が沢山いる柔軟な都市文化を各地に持つ多民族列島であり、その流通、経済的媒介、宗教(というよりはある種の契約)のために、米を使う人々の島なのだ。とは言え、2000年の歴史において、前半、1000年は東北を中心とする、東日本は、大和体制(西日本国家)に所属すらもしておらず、稲作中心の価値構造すら無かったのだ。米以外の農耕と漁業、狩猟、商業を中心とした生活を築いていた。このくにの歴史の半分は東西2つの国で、できていたのは、昨今の学会では常識であるにもかかわらず、歴史教育ではそいう、認識は伝えられていない。完全に文化も生活形態も違う、2つの国のせめぎ合い(最初は武力的な争い、のちに交渉、契約による、平和的な帰属)そのものが、日本列島の歴史の本質なのだ。秀吉は西南制圧を統治の主軸に考えていたのに対し、家康は従来の大和体制の主願である、東北制圧を統治の主軸に考えていたため、征夷大将軍として、江戸に幕府を開いたのである。征夷の「夷」とは東北の国であり、秀吉路線が継続されれば、征明大将軍とか置いて、唐津に幕府を開いたかもしれないのだ。
先ほど2つと書いたけど、厳密には5つの異民族(大和でない国)のせめぎ合いかもしれない。沖縄、九州(一部中国四国)、大和、東北、北海道の5つ。明治維新はこの基本を念頭におくと、別の見え方がしてくる。あの維新の中心になった国は大和ではない九州(一部中国四国)の勢力であり、傀儡的に(大和秩序)を利用しつつ、近代国家を「でっちあげた」のだ。例えるなら、漢民族でない中国王朝に少し似ている。逆に、あの時制圧された、東日本の諸藩こそが、東日本支配のために出張統治をしていた、大和の武士達の藩であった。朝鮮侵略統治や、満州国のでっち上げなどには、徳川幕府(誓約による大和政権)ではなく、明治政府(傀儡による大和政権)の西南制圧の色合いが濃く反映されていた。

権威や体制の歴史はそんな感じだけど、そもそもが多種多様な種族の集まりである、この国の豊な文化や人々が大好きだ。ただ、政治的には、今だ、根の部分で、傀儡大和(明治政府)の名残による、支配的な東北政策(本来の征夷意識にプラス、オリジナル大和武士達への傀儡官軍による差別)があるような気がして、権威や体制の歴史を見る上では、正しい歴史認識が必要かと思う。出張統治をしていた大和武士達は、単に東北を支配するのではなく、契約による「夷」の人達と融和を試みてきた歴史があり、文化の融合と、大規模な開墾、治水事業、広大な水田と品種改良、などの努力を重ね、稲作地帯を創ることで、東日本を豊かな恵みある土地に変え、完全に和としながらも、維新当時は大和への忠誠を他のどの地域より強く維持していたのだ。
明治維新を押し進めた、九州(一部中国四国)の人々の中にも、多種多様な種族の集まりであるこの列島を強く認識している人達もたくさんいた。そういう人達の理想は、傀儡大和ではなかったのだけど、明治政府成立の過程で、変質したり、淘汰されたりしてしまった。それは、早急な近代国家化実現を優先する判断による部分も多いのだけど、その結果、歪んだ西洋化であったり、やや強引な統一国家化となってしまい、その弊害は現在にまで尾を引いているのだ。
本来、大和秩序(天皇制)とは「稲を実りの中心として奉る社会構造」そのものを信望し教義の中心とする宗教(宗教言えるかもよくわからないが)であったのだ。そしてこの列島の人々は、その、「社会構造のコンセプト」を受け入れ、それぞれの古くからの信仰は守りつつも、共存の文化を形成していったのだ。傀儡大和は近代化にあたり、単なる貨幣制度では無かった石高制度(実は大和という文化や価値観そのもの)を廃し、強引な貨幣経済化を押し進めたのである。明治政府成立にあたり、その「実」を失ってしまった傀儡大和の形骸化した天皇は、個人的には天皇ですら無いと思う。そして、今も、この傀儡大和が、この国の官僚制度と経済構造の土台を形成しているのだ。その結果、我々は「米」に取って代わった「貨幣」を奉る、世にも恐ろしい民と化している。

2011年11月20日日曜日

殺しの掟〜「宴」と「政」〜


「お膳」というのが、ある。日本では何をやるでも、この「お膳」が立ってないと、日本ではクラブイベントでも、人も入らないし、踊りもしない。「お膳」は日本の文化だから、善し悪しは無いのだけど、自分にはどうも不向きなところがある。特に音楽の場合はそうだ。メインに対してつけ添えのように組まれていく、音楽。なんだかな~と、思う。自分でイベントやるんでも、そういう「お膳」な組み方を避ける。そうすると、明確なイベントになんないので、人が入らない。「お膳」は年功や知名度などの序列がしっかりしてるので、「実」は音楽の内容よりは、「お膳」の組み方が、イベントの主旨になる。当然ギャラなどの「お金のかけ方」もそれが中心となる。解りやすいし、安定感があるので、お客さんは、各ジャンルの松竹梅を一目で見分ける。日本の文化だから、それはそれでいいのだけど、自分はそういうコンビニエンスな、パーティよりも、同じ日本の文化なら、亭主のらしさが滲み出る、寿司屋や、小料理屋なイベントの方が好きだったりもする。
「お膳」はOne Wayに見えて、その実はOne Wayではない。5皿料理みたいな感じで、西洋料理のコースでもない。引立てがしっかりしてるので、解りやすく、「お膳」を頂く「お客様」は思考や参画はせずに、与えられた「お膳」をおいしく頂く(楽しむ、踊る)のだ。自分は意外性の無いものや、予定調和があまり好きではないので、「お膳の見立て」(フラーヤー)を見ただけで、なんか味の創造がつくものは、どんなに有名なお料理が並んでいても、あんまし興味が惹かれないのだ。でも「お膳」が全て嫌いなわけでもない。旅行などは、若い人の嫌がる添乗員同行型のプランなどは、その、「お膳」にあたるわけだけど、あれは素晴らしい。日本人の余暇意識(独自のバカンス感覚)を熟知した、無駄の無い「おもてなし」を見立てるからだ。目的が明確に「余暇」にあるなら、個人旅行よりは以外と、有意義な「お膳」だ。目的が余暇に無いのであれば、当然、個人旅行を選ぶ。意外性や出会い、探し物がある時などは、特にそうだ。日本の週末の過ごし方も「日本的な余暇」をメインとするなら、数ある、様々なグレードの添乗員同行型の「お膳」なクラブイベントで十分なんだろうと思う。でも、そこには自分の場合、「意外性」も「出会い」もましてや「探し物(音楽)」などは求めるべくもない。

「お膳立て」というのを辞書で見ると、準備 ・ 用意 ・ 段取り(をととのえる) ・ 先回りする ・ 早手回しに ・ 手筈(てはず)がととのう ・ (必需品を)取り揃える ・ 手順をととのえる ・ アレンジする ・ 体裁(ていさい)をととのえる ・ しつらえる ・ 支度する ・ 「(それで)格好がつく」 ・ (成功を)アシストする ・ 演出する。とある。けして悪い言葉ではない。むしろ何事をするでも、催し物をうまく成功させるには重要なことであることが解る。クラブイベントであればそれに参加する主催者、アーティスト、お客さんが、皆、満足するためのは、むしろ必要不可欠なことに思える。では見方を変えて、政策などの「お膳立て」の意味を見ると、レールを敷く ・ 根回し ・ (~のための)地ならし ・ 環境づくり ・ (水面下での)工作 ・ 下準備 ・ (~のための)道をつける ・ 土台を作る ・ (~の)舞台装置を用意する ・ (~を)セットアップする ・ 受け皿を用意する ・ 下地を作る ・ 布石を打つ ・ (~するよう)仕向ける。とある。政策の実現というのが、目的の実現であることが伺い知れる。ここでやはり気になるのは、「膳を立てる」という事が、目的の実現ありきという部分だ。「何の問題があるのか?」と問われるかもしれない。「何をするでも、目的は重要ではないか」と。自分が気になるのは、「目的の実現」の目的の部分なのだ。どのような「目的」であれ、「お膳立て」をすれば目的は実現するように思えるからである。そもそも、「宴」は自由意志により、自然に立ちおこる物である。「お膳立て」を必要とするものは、目的が自由意志が集まって発生する「宴」そのものではなく「場」の維持である。やりたい事を継続するために必要なのは、「場」の維持であり、パーティそのものの存在だ。「宴」がより「式」と化していくのである。「儀式」と言ってもいいかもしれない。これは個人的な意見なのだが、政もクラブイベントも、この「お膳立て」が過ぎると、より儀式化していくのだ。先程の旅行の話だが、「お膳立て」のしっかりした添乗員同行型の旅行ほど、「もてなし」は充実するが、「お膳立て」のしっかりすればするほど、個人の旅行への意思や趣向はおざなりにされる。かつてバブル時代には、クラブ(当時はディスコ)も、箱自体が、2~3年おきに出来ては、閉めていた。これは、集客が悪くてそうされていたわけでは無い。最初から、「宴」を目的とする、運営者達が、不動産の契約を意図的に経営の範囲としていたからだ。だが、クラブやイベントも、とかく最近は長寿継続がもてはたされる。アーティスト個人の長寿継続は別に問題はない。だが、「宴」であるパーティや箱、あるいはバンドとかはどうなのだろうか?バンドなどは、より個人のアーティスト的特性が強い集まりであれば、そんなに問題は無い。全体で一つの音。宴では無いからだ。だが、目的が「宴」でなければ、バンドの活動も長期化する。儀式化し、その「宴」以外の目的のために「儀式」は継続されるのだ。音楽を演奏する上で、「宴」以外の目的とは何か?それは「収益」である。
「政」や公的な物も、その目的は本来、短期的なものであるはずだ。だから、民主国家では、2~4年で政権は交代していく。だが、それが損なわれる様な箇所(あるいは部署、省庁でもいい)「場」としてその目的が、「継続」に変わった存在は、目的そのものが、変質し、「収益の維持」のための「儀式」の運営に変わっていってしまうのだ。それは、もはや「政」ではない。「場に所属する者達だけ」の「収益を維持するための儀式」となってしまうのだ。

水濁るところには「宴」も「政」も存在しないのだ。そこにあるのは形骸化した「儀式化した異物」だけが存在する。

だが、「儀式」というものがが本来持つ目的とは、「収益」では無いのだ。それは「死の肯定」なのである。正確には「禊」であるべきなのだ。つまり、「収益」を目的として、儀式化したものは、「儀式」ですら無いのだ。「宴」や「政」は生産を軸としていない。つまり具体的な何かを産み出す存在ではなく、生産を軸とするものを、活性化させるための存在なはずである。であれば、儀式化した、それらは、何をも産み出さず、何をも活性させない、にもかかわらず存在する「収益のためのコミュニティ」にすぎない。
神聖なる「忌むべく禊」でもないのだ。恐ろしいことにそれらは「生の肯定」を顔に持つ。それは「死の肯定」をしない禊。忌むにもすら値しない存在ではないだろうか?

アメリカのロックバンド、グレイトフルデッドは「儀式」の意味を正確に把握していたように思える。
彼らのコンセプトは「宴」で始まり、「儀式」に収束していくその過程そのものであった。
バンド名は「葬儀屋」なのである。その実の部分に「収益」があったとしても、
彼らは、その葛藤そのものをバンド名に掲げ、パーティを長寿化させてきた。

クラブシーンの活性化には、やはり、儀式化した「収益のコミュニティ」に音楽的な銃の引き金を引く。
「殺し屋」が必要なのかもしれない。
レゲエのサウンドやアーティストが名前や曲名で使う、murderやKillarて、なんかそういう
仁義というか、映画の「殺しの掟」みたいな感じがして、いいなあ、と、思う。


2011年11月17日木曜日

歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの「日本史」

歴史の中で語られてこなかったこと
―おんな・子供・老人からの「日本史」 
網野 善彦, 宮田 登

この本やばいです。今、まさに、考えさせられる「日本はなんでこんななのか」その問いの鍵が、書かれている。
書評というよりは、感想文なんですが、里山の多義性。「田」が中心の治水は豊臣、徳川以降に作られた、天皇を中心とした国家認識の普及と中央主導の国土管理の推進によるもの....である事とか、自由主義的歴史観(私たちが学校で学ぶ歴史)は「現在」を発展の最上として肯定する「発達の歴史」だけど、真実は数ある選択肢の1つを結果として「選んでしまった」にすぎない。....である事とか興味深いことが対談の形で書かれている。明治政府による、「律令体制の復活と西洋ナショナリズムを強引に結びつける政策」の大きな誤り。その時産まれた「国土意識」が、太平洋戦争を引き起こしたことについては、さらに、個人的に考えると、現在なお根強く残るその「意識」から今の放射能汚染への政府の取組みの根本的な間違いが浮かび上がる。
天皇は本来、小さな村の神官と同様の祭事を執り行う、純粋に「霊的な社稷を取り仕切る者」として、存在していたのに(まさに、天子であろう)国家的な権威(主権の置き所)として、明治政府に利用された。今も本質は変わらないと思う。天皇は国家、国民の「象徴」ではなく、祭事を執り行う、純粋に「霊的な社稷を取り仕切る者の首長」なのだ。明治政府は、元々「政」「教」分離を自然とやっていたこの国の、ちょうどローマ法王やダライラマにあたる立場の人を「無理矢理西洋的な国王」に仕立て上げ、政教合体をさせてしまった。その影響は今の憲法にまで、なごりがあって、国家の憲法で天皇を定義すること自体が「国王」としての認識であり、現在の「日本国憲法」は根本的な間違いを犯している。明治政府の愚行が、本来我々が持つ霊性(スピリット)の欠落を産み出す原因の1つであり、それは、今のも継続されてしまっているのだ。
さらにさかのぼれば、日本において政教分離の擁護を原始的ながら、明確に打ち出したのは平将門であり、平将門は敗退するものの、その考えは主流となる。そもそも、あれは、反乱の鎮圧ではなく、本来、東国は宗教的な帰順はしていたものの、「別の国家」であり、歴史の記述の誤りは、「征伐」とするところ、あれは「西国による東国の国家侵略戦争」であり、征伐ではない。そもそも大和朝廷は宗教的な恭順を求める、例えるならヨーロッパにおけるローマ教皇の存在であり、国家として日本列島が意識されたのは、豊臣、徳川が最初であり、それでも徳川幕府は連合国国家だった。200年かけて、独自の統一国家の体制確立を模索しつづけ、その確立の基盤に「天皇という宗教的存在」を置いた故に、明治政府による、「契約の無い、なし崩し的な、統一国家の実現」に利用された。国家形成の成り立ちそのものに、最初から、国権の意識が薄く、それが根本原因で、現在においても「主権」と称されるものが、借り物というか「絵に描いた餅」の様になってしまう原因がある。逆に、明治政府が断行した、天皇主権が国家形成の基本にあるなら、日本国憲法は記述の改正と共に、「天皇」は「国民」への主権の禅譲をするところからやり直さねばならない。それが、現在の官僚支配の根本原因でもあるからだ。孝明天皇いわく「官位昇進の宣下をしたのは誰か」という話である。そもそも官位とは何か?日本国政府(その官位保持者)は天皇制を精神的にを僭称し、政教ごちゃまぜにして、我が国を支配している。
日本国憲法記述の国民主権を実のあるものにするには、官位任命権は主権者であり、実質上の国権所有者である我々が行うものであり、「象徴」の記述、及び、官位の存在の仕方そのものの誤りを正さないとだめだと思う。「官位」の廃止をするか、あるいは主権の完全移譲を行い、我々が官位任命者(極端に言えば皆が天皇にならないと)ならない。現実的には、「象徴」の記述を外し、省庁を名称から廃止し、別名で再編。「官位」という考え方を全て政治から切り離し、宗教(天皇)側へ戻す方が現実的だ。日本の「官僚制度」の成り立ちが、明治憲法、現日本国憲法を股がって存在する以上、孝明天皇も危惧した、伊藤博文による、「天皇側の制度の傀儡利用」を成り立ちの基本とするわけだから、そんな無礼な制度は変えねばだめだと思う。天皇は国王ではない。過去に国王を自ら称したのは、平将門と豊臣秀吉だけだ。

 アイヌや沖縄を除いて概念化された、「日本」という存在。南や北にいけば行く程曖昧化する概念であり、実際、国境ですら南端と北端では曖昧である。我々は本当に「国家」なのだろうか?元々、独自な「国家を指向しない民」(実際、農民という帰属の概念は曖昧で、強引な代物だし)で成立つ、不思議の島、日本列島。様々な生活の営みをする、部族間の相互契約で成立って来た、非中央集権的な民族(歴史において語られるのは上辺なのだ)鎖国以外に国家の「態(てい)」を維持する方法が無いほど、海に無限の広がりや繋がりを民レベルで持っていた。本来が自由な人々の島。鳥居は海に向けられている。あれは、灯台ではないのか?定住ではなく、Home Town、ただ、帰る町として、アジアの様々な多民族が共同で愛した島。日本列島。見えて来る日本列島のイメージはものすごく巨大で、それでいて、とても慎ましいものだ。アメリカや中国とは全然異なる、多民族性を持っている。そりゃ、アメリカさんや、中国さんには脅威に映るかもしんないねえ。