2011年9月29日木曜日

運命の分かれ道



営業で町へ出ると、今日も1日生きている人々がいる。どこへも逃げ隠れもできずに、きっと10年後にも、ここで生きているであろう人々がいる。この人達と生きて行こう。そう、思う。冷静に考えれば、メルトダウンの時点で、東日本は取り返しなんかつかないとこまで行ってる。真実なんか、最初からわかっている。反原発のデモの人や政府がどんなにあがいたところで、変らない。変えれるなら、それはもっとマクロなことを、ミクロなところからだ。芝居ががった体制の維持なんかを、役者を振り分けて、やってる場合じゃない。でもそれが、双方の「癒し」あるいは「遊び」もしくは「暇つぶし」になるなら、盛大にやったらいいんだ。そういうのが、人の心には必要だし、そうでもしてないと、押しつぶされてしまいそうになるんだろうから。ガン患者は、ガンの告知で精神的な打撃を受けるが、実際に発病(身体的な苦痛)が始まると、精神的な苦痛に気を取られている余裕など、無いと聞いた。それは、予想を遥かに上回る苦痛であり、健常者には想像だにできないと言われた。嫌な話だが、そこには「生きる」ということの本質が感じられた。「それでも、こういう事態(震災や原発事故)がおきると、人のために何かできないか?と思うんだよ。自分でも信じられない心境なんだけど」と末期ガンの進行を投薬で押さえ込んでる、町の老人は言っていた。それはきっと、苦痛を知ればこその想いかもしれない。

916日。マスタリングに子安に向かう途中、JR稲田堤の駅で南武線を待っている時に、1人の小柄で温厚そうなおじいさん、(片足を少しびっこ気味)が、電車を待つ人々に「これ、私が書いたんです。読んでみてください。」とこの文章の手紙を配っていた。以下。


自然は草木や動物色々な生物を育てて居ります 人も例外ではありません
しかし人は種を蒔いて世話をするから 自分が育てた様に想い 
自然は偶然だと思いがちでありますが自然は人生の師でもあります
原点に返って人生を考えてみたいと思います

宇宙の中に生きる存在として 
人とは何かと云えば自然の中に生きる一種の生きものに変わりはない
ならば自然の動きを見ることに依ってその心を知り
其の心に添うか逆らうかに依って運命の分かれ道があります
こうすれば運が向いて来ると云う希望を持って生きるならば
一層大きな希望と勇気が湧いて来ると思います

生きた草や木は花を咲かせ人にも楽しませてくれます
そして花が散れば美味しい味覚を枝が折れんばかりに成らせてくれます
これが生きた草や木であります
しかし同じ草や木でも縁の下のスカンポは花も咲かず実も成りません
それは外の暑さや寒さを受けないで生きているからであります
人生においてもつらい事から逃れる事だけでこれが幸せだと思って
人として生きる勇気を持たない人生は心も弱くそして花も咲かず
実も成らない様な運命がやって来ます

暑さ寒さに立ち向かい風雨にさらされて育った稲だけが豊かな実りの秋を迎えられます
又倉の中に積まれた米は何時までたっても一粒は一粒
増えることはありません
外に出して田畑に蒔けば何十倍にも成って還って来ます
目に見えない空気の中にも気体分子と云って火に成る分子と水に成る分子また氷になる分子と
色々な分子が含まれています ですから 
それに色々な方法を加える事に依って火にも水にも又氷にも成ると云われて居ります
私達の命にも心という目に見えないものがあり
其の中に怒ったり笑ったりする分子が含まれていて
その者のもつ思想に依ってそれなりの運命がやって来ます

人はみんな生きる為に努力をして居ります
しかし努力をしても間違った思想をもって努力しても無駄になります

人はつらい事があるとそこから逃れようとして
その為に更に苦しみの因を作ってゆくものであります
たとえば不況の苦しみから逃れようとしてアセリ
そしてストレスを溜めて病気の因を作ってゆく事も多いと思います

つらい時も笑顔で支え合いいたわり合って楽しく生きれば
自ずとストレスは消えて行きます
不況や病気は人生の登り坂です
勢を出して笑顔で立ち向かって行きたいものでございます
平静にして待って居ても好運はなかなかやって来ません
だからといって悪に従えば運命に逆らう事になります
笑顔で人生に立ち向かえば必ず好運はやって来ます

山本 たけし(仮名:本名書いてあったんですが伏せさせていただきます。)


※許可を取る手だてがありませんし、頂いたものなので
ここに掲載させていただくことにしました。



最初、なんかの宗教かな?と、思ったんだけど、読んでみて、そうで無いのはすぐ伝わりました。かなり高齢の方でしたが、いろんな方にさり気なくお渡ししていました。1日あけて、ふと、思ったんですが、いや違う、これこそが真の宗教だ!と思い直しました、ご本人は微塵もそんなつもりは無いんだろうけど、何か、自分にもできる事があれば、という想いなんでしょうけど。この、ご老人が宗教だとするならば、この日本にある新旧全ての宗教法人は全て、金利権搾取詐欺団体なんじゃないか?また、でもこの老人は一言も「神」存在を説いてるわけではありません。ましてや「道徳」も、あるいは「政治」も。この、老人の云うところの「思想」こそが真の思う想いであり、それこそが政治とやらの根幹だと感じました。自己保身や挙足取り、立ち回りで隙を見計らうような、全ての政党政治に死を!「死を」というのはちょい強すぎるかもしれないけど。最近は生死を濁しすぎるきらいもあるので。どういうことかと言うと。今や、政治家は政党の方針に縛られず、自己を見つめ直す時代なのかもしれない。と、思うのである。例えれば、自分は人として政治家を見るようになった。民主党はもはや支持しないが、菅直人前首相は今も支持できる。自民党は支持できないが、自民党の中には、まともな事を考える資質の人がいたりする。共産党や公明党のように「人」が見えてこない全体主義的な政党は、存在すら容認できない。つまりは、政党政治そのものが、雁字搦めな要素が強すぎて、考え直す必要を感じてしまう。さもありなん。自分が日頃思うことを、独自な言葉で素直に語る、この老人に、感謝と尊敬の念を強く感じたのでした。

2011年9月12日月曜日

俺マニフェスト

最近6~70年代のイギリスとかのSFとかを読んでいると、ただの科学空想でなくて、社会学空想だったり、経済学空想だったり、教育学空想だったり、とてもユニークなものが多く、刺激を受けます。その柔軟な視点から、昨今の非効率で平等さを欠く利権社会を生み出す最大の理由は、都市や生活構造に、利権を生み出す余地があり、情報伝達速度が飛躍的に進化したにも関わらず、旧態然とした、構造が残っていること。もう一つは戦後教育制度の不完全さに起因する社会に対する考え方の世代間ギャップが共通認識を欠落させ、この国においては、コミュニケーションの手段として、ゲゼル(利益偏重)が機能してしまっていること。なんじゃないかと思ってみた。それを是正するにあたり都市構造の再考から模索するのはユニークだし、未来像を描くという意味では、解り易く、楽しいことなんじゃないかと思いました。
今、一番話題に上る、脱原発は、実はイデオロギーとは何の関係もなく、世界規模で連携して取り組む問題なんじゃないか?特に連携すべきは、アメリカ国民とフランス国民なんじゃないか?と、考えてます。経年劣化を軸に今後想定される事故は多いと考えられるし、より早期の解決を必要とするのは、依存度の強いこの2国だからです。だからこそ、まずはこの国の人達にこそ、脱原発を視野に入れた、都市構造の再構築と、相互依存による経済の相乗崩壊を国際的に議論し、ある一定の制御と自給性への振り分けをきちんと再構築した、新たな世界市場の構築は、地球環境ならびに、資本主義経済の継続のためにも、国際的に早急に取り組むべきだと言いたい。
皮肉にもケーススタディとなった、我が国は、積極的に、新たなる都市構造のありかたを考えだし、その推進を世界に率先して行い、抑制と発展性のバランスのとれた、より高次元な経済国家として生まれ変わり、各国を牽引すべきです!電力は水道同様、公的管理にすべきだし、省庁再編を行う際は、先に述べた転換を第一の目的とし、踏まえるべきです。いち早く旧構造から脱却するためには、2011年版、日本列島改造(そこには里山の保持、治水の見直し、自給性の再構築、エネルギーの効率化がメイン)を考案しましょう。まさに新日本列島改造論を議論したいんです。

緑豊かな国土を取り戻せ!全ての原子力施設を恒久封印せよ!

日本列島改造せよ!w。

世界経済グローバリズムの主旨を利益依存(ゲゼル)から相互扶助へ転換せよ!

現在の豊かな暮らしを守るために!

例えば、情報伝達速度が飛躍的に進化した、現在において、道路、鉄道、などの交通網はより効率化(削減)できるはずです。国全体のエネルギーの効率化は都市構造全体の改造が必要です。1都市集中型の構造は現在のテクノロジーを踏まえると非効率だと思います。

おもしろいので、この俺マニフェストにそって、現代版「ユートピア」論。日本列島改造論を。サイエンスフィクションとして、楽しく考えていこうかな。

最近はこんなことばっか考えちゃうんです。

2011年9月11日日曜日

THIS HEAT 〜自分にとっての音をめざして

秋なのに残暑で蒸しかえる9月頭、盆に帰れなかった故郷、木更津に1泊2日で帰省。親父が待ち構えていた。311以降では初めての再会だからか?一晩中いろんな話をした。ちなみにうちの親父、昭和6年生まれ、目黒区の出身で、大東亜戦争をモロに東京で向かえた世代だ。敗戦当時15歳、価値観の大転換を知る世代だ。木更津の山間、新興住宅開発が進んでるとは言え、まだまだ里山面積の大きい田舎、ここじゃ虫が完全に主役。四面楚歌ならぬ四面虫歌。父親と寝ないで語り明かした末の結論。この国は滅びと誕生を恐れ、なくしくずしに腐ったまま延命しょうとしている、となった。養分になることを拒み、まるで国全体が処分不能の産業廃棄物になろうといている、まずはそれをなんとかせんとな。ということだ。その延命は滅びよりも緩慢で怠惰、だんだん、いっそうそれぞれが利己化し、ただ、ひたすら人は心を腐らせていく、不毛の荒野を進んでいる現状である。

話の主は。この国が一流だったのは「経済」だけだったという話にも及んだ。一流の経済ついては、様々な国が尊敬と感謝の気持ちがあるかもしれない、しかし、経済のみの付き合いというのは、ただ、「金」の付き合いがあるというのと、同じだ。それが失われれば、この国には何も残らない。政治をはじめ、全てが三流以下だ。という話だ。
また、管前首相に対する評価がおれと偶然にも同じだった、「いろいろ手を回して、人を動かす事は不得意で、政治家には向いてないけど、理系出身特有の、本質に最初に辿り着く感覚や(事態の掌握はできなかったが、首尾一貫原発を危惧し、東電の隠蔽体質について、最初に国営化すべきと発言した。)不慣れゆえ、慣れない周りへの気遣いなんかしていたけど、ポイントは外さなかった。」というところでは、意見が一致した。具体的には2つの点で、厚生大臣の頃となんら変らない合理的な判断を下した。(1)何はともあれ、メルトダウンの事後報告(タイムラグのあまりに大きいこと)を受けて、即刻、全国の原発を止める判断を下た。(2)実現はこれからとしても、脱原発でエネルギーをどうにか考える国の方向性を諸外国に示した。これら首相でなければできない行為だ。

では、野田内閣はどうだろうか?表向き、管の明言を踏襲すると言っているが、自分には緩やかな軌道修正内閣に見える。頭から細野発言、さらに、通産大臣の辞任劇。自分にはどうにも、野田内閣は芝居が過ぎる気がしている。福島復興という命題の既成事実化(その責を棚上げに本質をあえて濁すやり方)さらにつつづけて、メディアぐるみの如何にも見え透いた、既成事実化の補強(下手なことを言えない空気の演出)として、鉢呂発言と辞任劇。これらは全て隠れた命題、自公との大連立の布石に思えてならない。皮を切らせて、骨を守るというか。野田内閣には前内閣の失敗の教訓を生かし、的確かつ巧妙な策士(シナリオライター)がいるように感じる。既成事実の積み重ねで、我々の意思であるかのごとく事を進めるためのシナリオであり、一見マヌケに見える言動にもすべて裏のとれた意味を感じる。戦国時代の策士さながらの民衆操作だ。野田内閣に唯一期待があるとすれば、民主党の最初からの命題、今回も小声で公言してた、増税前に政府運営の経費削減(主は国家公務員削減を視野に入れた法改正と、省庁の運営見直し)簡単に言えば、公務員切りの法改正と省庁の再編は抱き合わせで同時、それで官僚の頭切りを行うこと。これも、内閣ができた冒頭の腑に落ちない展開を見ると、どうにも怪しい。親父に借りて今読んでる本に、『なぜ日本は没落するか』森島通夫(岩波現代文庫)に、こうある。歴史はこのように進行する。将来像(シナリオ)は最初確率的なものとして与えられ、どのような像も、その将来時点に達するまでは危険を含んだものであるが、現実にその時点に達してしまうと、すべての危険は消え去り、現実は動かし難い確定したものとして、われわれに対して佇立している。」(森島通夫)炭取りがどこで回るのか、(シナリオと現実がクロスするX点)を、注視しないとならない。このままでは、元の木阿弥どころか、まるで最初から放射能があったかのごとく、それに対応する日々を迫られるという事態になりかねない。その中には、復興のために、原発再稼働という最悪のシナリオも含まれていないと、どうして言えようか?そのためには、反原発を福島復興の妨げになる刹那的な行為と断定し、一般世論を段階的脱原発という絵に描いた餅に収束させるシナリオが見えてくるのだ。高速道路の無料化と同じく、実現不能な立て看板にすり替える気ではないのか?

目線を少し大きく広げよう。放射能の残存は、この国の食料の自給を一層困難にすると思われる。もし、それにも大きな意図があるなら、の後、新手の奴隷船でもやって来るのだろうか?その船にIMFとかの旗が掲げてあったらぞっとする。先に書いたように、今後「経済」というカードを失った後、三流国となるこの国を、味方に(というか市場依存に)とどめておくためのおそろしいストーリーだとしたら?TPPもそれを睨んで打たれた施策なのか?とさえ勘ぐってしまう「市場」という名の奴隷国家でいろと。こう、書くとすぐ「それは某国の陰謀だ!」と話がひろがりがちだが、違う!あからさまな表が首謀とは限らないのだ。真実は一見敵対する国にもいる勢力との共謀して、この国の自給力を根絶やしといったところだろう。正直、相手は国家でなく、利権集合体だと思うのだ。国境は無い。そこには我が国から離脱しようとしている、我が国の企業体も含まれている。あるいは宗教団体も。でも、豊かなで便利な生活、「消費奴隷でいつづける」ことを望む人々も沢山いるのだろうから、いや、むしろ、それが主流だろうから、平和を乱す考えなのはおれの方なのかもしれない。でもそれは勘違いではないか?この国のゴールドカードの有効期限は間近なのに、みんなまだ使えると思い込んでいるのではないか?ゴールドカードが失われれば、こんな小さく、卑劣な国など、誰が顧みるものか!ただの荒んだゴミの島だ。そうして怠惰に命を貪りつづけ、国土が腐るままにお祭り騒ぎをつづけるのだろうか?これを書いているのは2011年9月11日、そう、あのアメリカ911テロから10年目だ。何故?世界貿易センタービルだったのか?その後それを教訓に利権集合体はより強固に巧みにスケープゴートを産み出し、先の震災においても想定外の天災(?)を誰独りとして謙虚に受け止められないような構造を作った。それぞれが、それぞれの思惑で利用こそすれ、次世代の体内を蝕む毒(地雷)だけが残される。これが、「俺たち」の意思なら、911,311にうわべの祈りなどできない、自分も含め、体半分は被害者ではなく、加害者だからなのだ。あの2つの悲劇は俺たちが招いている。これは、揺るがない。それでも「負け犬の遠吠えはやめろ。」と。「嫌なら這い上がれ」と。「こんな自由の世界を乱すな」と言われるのだろうか?おれ個人は土下座してでも乞いたい「~その螺旋を登るのは嫌です。~という選択肢をください。たいした力などありませんから、なんの影響力も無いですから。」と。







もし、問題の根にあるのが、原発を遥か通り越して、都市や生活のありかたに及ぶとなると、もう、トーマス・モアの「ユートピア」まで戻って、再考しないといけないのだろうか。世界の都市や生活は多少の違いはわれど、今や、基本構造は同じ(というか同じにすることで市場形成されてる)なのだ。それは、たとえば旧来のこの国(日本)の里山構造とは、最初から矛盾を内包している。日本は先んじていたが、その後、近現代都市化が進められ、世界の都市と生活形態がここまで統一されたのは、ここ30年の話だ。その構造は相互依存を前提としており、世界中の都市や生活は後戻りの困難なとこまで来てしまっている。日本において、震災及びそれ以降起きている問題は、等しく世界の都市構造や生活にも、そのまま起こりうる問題として、おれらの想像以上に動向が世界中の人々から注目されているんだと思う。ということは、都市構造と生活のどの部分を従来の流れのまま、世界構造との互換性のある部分(市場)として機能させ、どの部分を自立性を維持し自給力を高め、相乗崩壊を阻止できるよう変えていくか?主査選択になるのだろうか?そもそも制約された範囲での市場参加というのが可能なのか?かつては(というか30年くらい前までは)統一規格化されてないが故のなりゆきで、制約があった(それはそのまま、先進、途上、という都市のグレード格差みたいに言われたりもしていた)あるいは宗教、体制的な違いによる制約もあった。国境無き利権集合体みたいなものも、この構造が生み出してる側面もあるのか、あるいは意図的に構築されているのか?まあ、でも、いつの時代でも、その時代の構造の中で、そういう奴らは生まれている(というか辿り着いてしまっている)のかもしれないが、それではまるで永遠の階級闘争みたいな話か?疑問ばかりだ。なんでこんな話するかというと、「この螺旋は幻想です」というのは易いが、後頭部をプラグで繋がれたまま、夢見るように、野山を心のみで妄想するような、自己完結の仕方が腑に落ちないだけなのだ。未来は変えられる。すべては人が頭で考えだして作り上げたものにすぎない。それは、全くその通りなんだけど、自身の生活を濁り無く見つめることが、そのまま、世界全体を見つめることになっちゃう時代なのだ。10年前に2機のジェット機で、まさに、世界貿易センタービルに突っ込んだ奴や、こないだ銃殺された、オサマビンラディンと、「そこ」んとこ、話してみたかった。どう、考えているのか?あるいはいたのか?その、性急すぎる行動の裏にあるのは、単に宗教的心情なのか?どうなのか?そんな過激なテロ行為にいたる前に、1晩酒でも呑みながら、尋ねてみたかった。


いったい世界をどう考えていたのか?と。


最近はレゲエを聴きながら、おれの中にもJahがいればいいのに。と、真剣に思う。切実だ。でもおれの中にはいない。この国に生まれて、真剣にラスタファリアンに近づきたいと思うなら(ファッションや趣味、学問で無いのなら)、自分の中の「Jahの不在」からはじめないとならないんだなあ、と思う。おれの中にはいない。今後もいないと思う。なら、自身でおれに合った形で練り上げないとならない。あの小さな国、ジャマイカは信じられないほど荒んで、どんな国際社会からも相手にされないような貧相な国からは、人の心に力を与える無類の「音楽」が次々産み出されている。肉体(自給力)を奪われてなお、躍動する生命が迸る。この国(日本)の人々はレスポンスを返さず、ただ、それを消費している。それが歯がゆい。ただのSEXの前戯の秘薬みたいな、「欲望と自己正当化」の道具としてのみ、使っている。それは、そういう側面があってもいいのだが、あれは諸刃の剣であり、欠落している部分を完全に無視するのは、「音楽」として聴いてないのと同じだ。そう思うと、そこに向かって自ら音を放つ時、この国で、どんな理不尽な対応を受けても、受け入れられると思える。音楽だけでも、自給自足しなければ、と思うのだ。70年代、UK。スタジオで、上下左右を真撃なレゲエバンドにかこまれて、チャールズヘイワード率いるTHIS HEATが自分にとって真実の音を目指して音を奏でたように。

(以下ウィキペディアより抜粋)
※ディス・ヒート (This Heat) は男性3人によって構成されるイギリスポストパンクバンドである。1976年ロンドンブリクストンにて結成、1982年に解散した。

概要 [編集]

グループが結成された1976年から1stアルバムが発表された1979年にかけてのイギリスのミュージック・シーンは、アート・ロックグラム・ロック等から、パンク・ロックニュー・ウェイヴへの大きな転換期にあたる。そのような時代に、ディス・ヒートは、特定のジャンルに分類することが困難な独自の音楽を展開していた。その音楽は、しばしば孤高という言葉で形容される。
ディス・ヒートの音楽を特徴づけていたのは、チャールズ・ヘイワードの強靱なドラムスであったといえる。ディス・ヒートは1982年にギャレス・ウィリアムズの脱退に伴って崩壊し、メンバーは他のグループやソロで活動を続けた。チャールズ・ヘイワードは、キャンバーウェル・ナウを結成し数枚の作品をリリースした後、ソロ活動を行っている。ギャレス・ウィリアムズは、2002年に亡くなっている。

メンバー [編集]

  • チャールズ・ヘイワード - Charles Hayward (ドラムス等)
  • チャールズ・バレン - Charles Bullen (ギター等)
  • ギャレス・ウィリアムズ - Gareth Williams (ベース等)

作品 [編集]

  • This Heat (1978年 アルバム)
  • Health And Efficiency (1981年 12"シングル)
  • Deceit (1981年 アルバム)
  • This Heat with Mario Boyer Diekuuroh (1982年 Albert Marcoeurとの片面ずつのカセット)
  • Live In Krefeld (1986年 カセット)
  • The Peel Sessions (1988年 シングル)
  • Repeat (1993年 アルバム)
  • Made Available (1996年 アルバム)
  • Out of Cold Storage (2006年 6枚組ボックス・セット)

2011年9月2日金曜日

サイエンスフィクション

秋です。まず、冒頭にもの凄い発言。「最近のダンスホールレゲエ好きの若い男どもは、まるで、女の娘みたいだ、1人1人はまるで夢見る乙女。集団でつるみ、精神的に互いに牽制し合い、おまえら女子校生の仲良しグループか!つうか、肉体はいざシランが、心がバティマンだ。バティマンコミュ。申し訳ないが、バティマンはディスらしてもらいます。」てなことを書くと、なんか凄いマジに取られるんだろーなー。そんで、女子校生仲良しグループ的な攻撃を受けるわけです。今の発言、特定の誰をも指していません。言うなれば、空想かもしれない。実地検証に元ずく空想だから、サイエンスフィクションだ。バティマンが駄目なら平和な箱入り娘。まさにハーコーインザギャルゾンビ。こういう空想の自由が蝕まれるのが、女子校生仲良しグループだ。
「なんか、違くなってっけど、言える空気じゃねえよな。」てのがそのまま、身に保全のために進むと、本来の自由闊達なシーンやコミュが変質し、気がつくと変質どころか、真逆になってたりする。こうなると、もうわけがわかんない。「こいつ俺らを否定しゃがるぜ!」オイオイ違うだろ!愛だろ!マジ否定的に思ってたら、こんな言い方はしません。話が逸れましたが、本題。


サイエンスフィクション。空想科学物語のことだ。去年の話題だけど、車椅子の理論物理学者スティーブン・ホーキング氏が著作、「グランドデザイン」で「宇宙誕生に神は必要無い」と発言した事に対し、ローマ法王ベネティクト16世は昨年、10月28日の法王庁科学アカデミーでの講演で、間接的な反論を展開。「宇宙は神の創造物である」ことを明言した。話の流れとしては、科学の役割は神の存在を明らかにすることにもあると指摘。「科学者は世界を創造しているわけではなく、それについて学び、まねようとしている」とした。 さらに、科学者の役割は普遍の法則を創造することではなく観察することにあると強調、そこから導き出される結論として「人間ではない全能の知恵が存在し、それが世界を支えていることを認めざるを得ない」一方で科学についての理解も示し、科学と科学者の功績をたたえた。緩やかな論争というか対決だけど、最初に賽を振ったのはホーキング博士。「神」という言葉を著作に持ち出した時点からややこしくなった。ホーキング博士が「神」を語るということは、もう、それ自体が「空想」の領域だからだ。彼は理論物理学者だから、神を語る部分は否定であれ、肯定であれ、サイエンスフィクションということになる。彼の立場からすれば、である。彼が「無い」というのは空想上「無い」のであり、仮に「いる」と言ったって空想上「いる」のだ。しかし、考えの立場が違えばそうはとらえられない。教会にとっては「神」は唯一の現実であり、科学者による、宇宙や現象の概念化、名称化こそが「空想」であるからだ。
でもアジア人である自分が見ると、見方はまた変わってくる。「人間ではない全能の知恵が存在し、 それが世界を支えていることを認めざるを得ない」(ローマ法王)でも全能で全知であるというこは、無能で無垢であるというのと同じ様な気がする。始まりと終わりの間に時間を作り、概念を置くことはナンセンスなのかもしれない。アジア人の自分には。神の存在を立証する行為は、神の不在を認めるのと同じ行為に思える。人間は言葉や概念を形にするとき、「始まり」を創り、「終わり」を創り、「時間」を創り、「善悪」を作った。でもそれら全ては言い方にすぎない。その結果、理屈抜きで明らかな無様まで、「善の様(おれは悪く無い)」と言える構造ができてしまう。合法の「法」が利用され、酷い結果を生む場合などは、まさに最たるものだ。「恩着せがましい」とはよくいったものだ、恩は売り買いするもんではないから、たとえば、この言い分、最近の原発事故について「皆様の生活を支えてきた電力会社はなにも『悪』くありません。(あるいは悪意はありません)想定外の天災なんです。」ええ、悪いとは思いません。でも、善いとも思いません。だって、そもそも、自分が無知、無垢の赤子で生まれて、このかた、その「皆様の生活」とやらを選択する権利も、機会もはじめから持たされて無いのであるから。「宇宙誕生に神が必要ない」というホーキングさんに、ローマ法王はこう言うべきだったのだ、「神は自らをお創りにはなられません」。そしたらホーキングさんはこう返すかもしれん「それでは法王は、宇宙は神だ。とおっしゃるんですね?」ローマ法王は静かに微笑みをたたえながら「いえ、そうではありません、あなた方が宇宙を『宇宙である』としているように、わたしたちは神を『神である』としているだけですよ。」←このやりとりは自分の空想ですが。


自分が危惧を感じるのはローマ法王ベネディクト16世がローマ法王庁科学アカデミーでの講演で「宇宙は神の創造物である」と明言したことそのものにである。神が絶対か絶対でないか、科学が万能か万能で無いか、はどうでもいい。この言い切りは、2000年に及ぶキリスト教徒の深淵なる心の対話を全て危うくするような傲慢さを秘めている。さらに、「科学の役割は神の存在を明らかにすることにもある」「科学者は世界を創造しているわけではなく、 それについて学び、まねようとしている」という発言には、アジア人として西洋文明そのものに危惧と終焉の示唆を感じざるを得ない。 キリスト教のありかた、科学のありかたに、あまりに哲学的配慮に欠けている。この、混同を押し進めると、ローマ法王自ら、神殺しをやる結果になりかねない。これこそ、本末転倒だ。「なんか、違くなってっけど、言える空気じゃねえよな。」てのがそのまま、身に保全のために進むと、本来の自由闊達なシーンやコミュが変質し、気がつくと変質どころか、真逆になってたりする。とはこのことで、「こいつ俺らを否定しゃがるぜ!」オイオイ違うだろ!愛だろ!マジ否定的に思ってたら、ホーキング博士、あんな言い方はしません。
SFと言えばサンリオSF文庫。
絶版文庫Lineなんですが、大好きで集めてます。