2011年7月15日金曜日

Sugar MinottとSoft Rock









Make It With You - Lincoln Sugar Minott. http://www.youtube.com/watch?v=sEpXUDG9UrY
Sugar Minott - Never my Love (Black Roots 1981) http://www.youtube.com/watch?v=RjTIDo2tgjQ
Ken Boothe "Everything I Own" http://www.youtube.com/watch?v=96zRauey60A
こないだ近所の中古レコード屋で500円で購入したシュガーマイノット、80'sのベスト!最高に素晴らしい時期のシュガーのヒット曲満載で、アナログの状態も良。聴いていて想いを巡らすのは、この人のカバー曲のセンスの良さ。この時期、シュガーはワールドワイドに活動の場を広げていて、アメリカ市場をターゲットに、レゲエの枠を飛び越え、極上のポップミュージックを世界に発信していた。自分は中学生の頃、始めて購入したレゲエのレコードがシュガーのGood Thing Going(まさに世界的ヒットアルバム!)だっただけに思い入れも深い。夏の富津岬ビーチにカセットウォークマンに録音した、シュガーのGoodThing Goingテープを持参し、繰り返しもう、擦り切れるほど聴いた想いでがある。のちのちまで、この時のシュガー体験が僕の音楽の趣味的方向性を決定づけている。のちに、モータタウンを筆頭にソウルミュージックが好きになって、聴き漁った時に、マイケルジャクソンのでGood Thing Goingに再会したり、さらにのちになってソフトロックというアメリカンポップスのジャンルを聴き漁った時には、同アルバム収録のNever My Loveがオリジナル元、アソシエイションであることを知った時の言い得ぬ感動をしたのである。レゲエのメロウチューンに関しては、多くはソウルの名曲のカバーが有名だが、シュガーの場合、どうにもこうにもそのサウンドの資質、アレンジにソフトロックの色合いが濃い気がするのだ。上記、ベスト盤のMake It with youにしても元曲はブレッドというソフトロックグループなんだけど、このブレッドのメロウチューンは秀逸で、(他にケンブースによるカバーeverything I ownはあまりにも有名)自分は、黄金のメロディの宝庫ソフトロックの世界にどっぷりと浸かってしまった。思えばそれも、若かりし頃のシュガーとの出会いが強力に脳裏に染み付いているんだと思う。

シュガーマイノットは僕にとってビートルズと並ぶ、偉大なるメロウ師匠なんである。

R.I.P.














BREAD - MAKE IT WITH YOU http://www.youtube.com/watch?v=sTkj-Uz2vQs
THE ASSOCIATION - never my love http://www.youtube.com/watch?v=munErg-ykYU
BREAD - everything I own  http://www.youtube.com/watch?v=THtMy57rtlE

















2011年7月12日火曜日

ジャマイカンレゲエは最近、内傷化、アンニュイ化してますが。

全然違う話から。安土桃山時代までの日本は今ほど森林や水田、肥沃な美しい国では無かった。徳川幕府250年の戦乱亡き安定の時期に、それぞれの土地の様々な人々が、数世代にわたり山に植林し、水の生まれる土壌を作り、水路を引き、手作りで作り上げた豊穣の国なんである。日本列島全体がある種巨大な里山と言える。その治水、植林の伝統は、明治、大正、昭和と引き継がれて来た。先代の人々が残してくれた、かけがえの無い「宝物」なんである。そんな「宝」をここ40年そこらのの電力事業が、根本からその「宝」を根絶やししている現実を、原発という部分のみに捕われず(原発はその中でも最悪だけど)認識したい。


 産業廃棄物を水源のある山奥に不法投棄することによって、川が汚染されることがどんなに恐ろしいか?原発による被害も同列で認識すべきだ。放射能の拡散は発電という事業による産業廃棄の拡散であり、より広範囲に長く、その汚染による被害が継続する。銅山や水俣どころの規模でない。戦後最悪の産業廃棄による公害であり、その規模は世界でも例を見ない、最大広域な汚染なんである。一瞬にして、海、山、川、土、人、植物、動物、全てが汚染されている。完全復旧にへたすると100年単位の規模だ。
 また、ダム建設による森林の破壊は治水を役割とする村を水没させた。300年以上の長きに渡り、日本列島の水の循環を治め、大地の豊穣を目的とした治水事業は電力事業にとって変わられ、林業(これが全ての治水事業の根幹にある)は衰退、里山は荒廃。たった40年で、地震のおきる前から、日本列島は瀕死の状態になっていた。このまま、他の経済も衰退し、日本人がせっかく作ってきた、豊穣の大地が失われれば、食物の自主生産能力を失い、IMFなどに借款しながら外国の食物に頼り切る、国をあげての「消費中毒国家」に成り下がる。IMF以降の話はなんか聞き覚えが無いか?そういう「消費中毒国家」は南米やカリブにもある。


「消費中毒国家」=「怠け者の国」唄でもうたって、自分をごまかしながら、生きていくのか?


おれはレゲエ好きですけど、そんなとこまでジャマイカになる必要は無い!
どんな仕事してても、音楽やってても、唄うたってもいいと思うんだけど、その根幹に『共同性』の回復、利益社会(ゲゼル)からの脱却。をしっかり認識して根の部分で意識的にやってかないと、ダメだと思う。この国はコンシャス不在だと思う。


伝統と文化!


自分の中の「意識の存在」に問え!


よし!








※参考文献 『日本再発見 水の旅』富山和子(文芸春秋)   

レゲエのSoundに関する深夜の勝手なる私見(思い込み)わざと編集せず。


CLUB MUSIC!! 自分はブルースが無ければ、ジャズ、ロック、ソウル、オルタナティブモロモロはこの世に存在しなかった。
レゲエが生まれなければ、全てのCLUB MUSICはこの世に存在しなかった。
と、基本、思ってるんですが、じょじょに上がるCLUB MUSIC STYLEという部分では、テクノ、ハウス、ドラムン、HIPHOP、レゲエ、モロモロは基本的には同じだと思うけどな?
大きな上り下りの中に、複数の小さな上り下り。つなごうがつなぐまいが同じですよ。
自分がやってるイベントのTime Tableを考える時は、一番大きな(おおまかな)上り下り。そこを自分が担当している以上、中で何がおきても、レゲエです。w
SOUL II SOUL SOUND SYSTEMAIRで見た時はすごかったな、1時間くらいでありとあらゆるCLUB MUSICをかけて、その日の箱の客の反応(好み)を様子見し、深夜にその日、一番反応の良かった、HOUSEを深夜にJUGGLINGしまくるスタイル。ああいうのは自分はできませんが、w。なんでもできるんかい!!つう感じ。w
STONE LOVEにもすごく似たとこある。wSOUL II SOUL SOUND SYSTEMありゃあレゲエです。Houseまわしてても、バリバリレゲエw
ONE SOUNDで一晩やる時は、ヤバイSOUNDは基本同じやり方してる。レゲエだけの場合でも、アーリーの後半、いろんな時代、ものすごく多様なRiddimをかけ、その日の客の好みを測り、深夜に一番反応の良かったRiddimでひたすらノンストップジャグリン。そんで朝方ニューチューン
様子見の時はブッタギリでより多くの曲をかける。ジャグリンはひたすらつなぐ。ニューチューンはMCが認知向上も含め、紹介をMCし、曲の善し悪しをはかりつつぶった切りでかける。
SOUNDのファンによって好みが分かれる。それが、後々そのSOUNDのカラーになっていく、あげく、SOUL II SOULみたいになっちゃうSOUNDもあったりして。
最近はお客さんがずうっと箱にいたりしないから、こういう乗りはできにくいのかもな。ワンナイトクルーズスタイルは難しいのかもなあ。
田舎のどんな小さな箱でも、レギュラー持ってて、One Night やってるサウンドはあなどれません。よ。毎週を3年。あるいは月一を10年。知名度を越えたサウンドのカラーが必ず生まれてますから。
最近は「箱」をOne Soundとして見る見方もある。でも「箱」はOne Soundとしての側面と、多様性のある側面と両方あるのが理想的ですよね。でないとフリーズしちゃう。次々とネクストゼネレーションが入ってこれないと、つまんないもんね。
ラバダブとシヨーの違いも実はそこで、ニューチューンのセグメントの後にやるのがラバダブ。つまり演歌のドサ周り。歌い手が新曲の認知向上で唄う場合と、まだ、シングルさえ切られていない新オケでの実験場。そこで、新オケに合う以外な新人さんが登場したりして。
どうなんですか?もう、レゲエはそういうのやってませんか?自分はおっさんなのかなあ。w
レゲエのSoundに関する深夜の私見でした。申し訳ない。


法と掟

 神社本庁が原発推進擁護してて、神社は荒れるは、地鎮は怠るは、してんなら、魑魅魍魎餓竜世に放たれてますね。やばいなあ。全て反転する日本の精神世界。すごですよね。日本は2000年の呪縛を乗り越え、建国できるかもしれない(これは逆説ですが)。完全な独立か奴隷か?おれはIndependence Dayを夢見、目指したい。神社本庁が地鎮を放棄したなら、みなさん、どんな音楽でもいいんです。真のFreedomが来ました。皆で踊り狂って、民が自ら魑魅魍魎を押さえ込みましょう!踊れ!踊れ!
 ところで、今のこの国、利権集約能力の有る人が、利益の分配を餌に得票し政治家になって来た土壌を変えるのは、困難だよね。資本主義は常に強い者(利権集約能力)目線になってしまわざるをえない。誰だって実利目線になってしまう構造は、裕福な者、貧困な者を問わないのだ。それを人権主軸に戻そうとするなら、政経分離と相互扶助の実現は、やはり「声を上げる」以外に道が無い。政治は社会主義的にあるべきでも、経済は自由であるべきという道となる。ただ、社会と経済を分離できるのか?という問いだよな。字のままだど、社会とは経済のことだもんな。社会主義では無いのかもしれない。そう考えるとイスラム社会主義と民主主義(資本主義)の両立は良く出来てる。あるいはラスタファリズムも、かなりまとまった考え方なんだなあ、と、思う。善悪や無償の福祉を司るのは、「意識の集合」であって思想や経済じゃないもんな、でも倫理を中心に据えた儒教や王明学もいきすぎると全体的に偏る。「意識の集合」というのがそういう問題を孕むなら、法のあり方(置き方)を模索する以外に道がない。日本は今、つうかおれら一人一人は今、とんでもない宿題の提出を迫られているのかもしれない。




 構造的差別を次々と産み出して金に変える能力に関しては、この国の右に出るものはいない。問題の根源に視線向けると、この国の歴史、氏姓の問題、あげくは天皇制にまで辿り着く。しかもこの国の場合、被差別者を血縁化することで支配の構造を強化してきた。これはもうはなから個人という概念の無い世界だ。いい部分もあり、弊害も奥深い。極端な話、家族の中から奴隷を産み出す(役割として置く)やり方なのだ。これ、感覚としてとらえると、根深く現在の日本人の気質にも根付いている。手塚治虫は漫画『奇子』でそこまで踏み込んでいたりする。この国に外から来る者は、内側にいると見えないこの構造がよく見えている。GHQしかり、華僑しかり、フィリピンや韓国、タイから来た人でも、見えているはずだ。この国で暮らす上で、彼らが細心の注意を払うのは、笑顔で温和に近づいてきつつ、この構造に組み込もうとする暗黙の力だ。「暗黙」の中には近づく者すら自身では気ずいていない「支配の構造」が組み込まれている。彼らは細心の注意をもってそこには「距離」を保とうとする。「距離」を維持しながら、この国の構造自体はうまく利用して、利益の得られる関わり方をする。自己を守りつつ、日本との関わりをつづけるには、それしかやり方が無いからだ。それが時に日本人には調子良く見えることがあるのだろうが、たちが悪いのは日本人の方なのだ。しかも、自覚が無い。どこか卑屈ですらあるこの感覚は自分の中にもしっかりとある。近頃はそれが見える。原発の問題が、理不尽な様相を表面的に持ちながら、具体化すればするほど、核心に触れられない、もどかしい状態に陥ってしまうのは、そういう全体の構造が原因だと思う。頭で納得できない事柄も、私たちは、その、遺伝子的記憶の中で、無意識に納得し、全体ではその構造を維持しょうとしてしまっているのだ。今、日本人は数百年どころか、数千年培い、維持してきた、その、構造の中に、完全に破滅の想定が明確な『癌』が根づき、もはや構造の維持と一体化してしまっていることは理解しつつある。だが、どうにもこうにもラチがあかない。それは、一体化してしまっているが故の、アイデンティティの崩壊と背中合わせだからだ。奇麗事はいくらでも放てても、具体的な解決に近づけないジレンマに陥っている。


 何故、日本はドイツやイタリア、あるいはエジプト、ベラルーシでもいい、ああいう展開にはならないのか?確かに悪しきは目に見えるのだが、その悪しきの根を足元から辿ると、自身の体と解け合っている部分を、無意識に感じ取ってしまうのだ。この個人という概念の無い日本的な世界感。かつては調和がとれていた。先に述べた弊害では無い部分。良い部分はそこにあった。社会が共同性(ゲイマン)が強く機能していた時代。この構造は差別は産み出すものの、それ以上に強い家族的「絆」の存在で、その弊害を補完していた部分もあった。役割は機能や利害を越えて、原始的な相互扶助の形を作り出し、従属者と支配者の境目は、「絆」を前には地続きで、可変可能な上下の部分には曖昧な要素を多分に持っていたのだ。そこには社会秩序は「法」を越えた「掟」が存在し、互いが互いの役割を尊厳を持って見つめ合える「ゆとり」があった。
しかし世界は日本に止まらず、グローバル化の時代を迎えた。かつて構造の基盤になるものは、善し悪しは別として閉塞した距離と時間により産み出され守られていた、それはまた、直接的なコミュニケーションにおいてのみ機能する情報の共有(認識の共有)の場でもあった。それが共同性の根幹であった。しかし、テクノロジーの進化、(インターネットなどの普及)グローバル化の促進は世界を日本を含め急速に利益性(ゲゼル)の強い結びつきの社会へと変えてしまった。その急速な変化に、日本は個人の関係性においては、他国同様に利益性の結びつきによる社会へと急速に変化したものの、根幹にある構造のみが、旧来の閉塞した構造を変えることができず、そのため、旧き構造の悪しき部分がより強化される形で残存してしまっているのだ。このため日本人は「個人の意思」が旧来のまま希薄であるのに、この旧き構造を自己利益のために個人個人が利用し、自己の利益を守る構造的土台としてしまっている。「個人の意思(個人という概念)」が無いのに、全体として他者を(家族をも)自己利益の為に利用する道具に見立て、その安易な立場の温存のためにのみ旧き構造利用する、より、構造的差別を強める状態に陥っているのだ。これは滅びの道であると思う。

答えは「認識」にある。あるいは「自覚」と言っても良い、日本を訪れる外国人は教養の有る無しにかかわらず、「見えてしまう」この構造。言葉で説明するのは難しくても、その実は、そんなに難しいものでは無いはずなのだ。どう変わるかは解らない。世界に習い、利益性の結びつきを「個人の意思」を育て上げることで乗り切るのか?または、時代に逆行してでも、再び新たな形の共同性を取り戻すのか?でも、変えるなら、「自覚」からしかその1歩は踏み出せない。

 個人的には、時代に逆行してでも、再び新たな形の共同性を取り戻すべきだと思う。「法」の上に「掟」がいるんじゃねえのか?俺らの部族には。と、思うのだ。倫理、道徳というより「掟」の方がしっくりくる。けして犯してはならない、「法」より強い「掟」。「法」の目はかいくぐれても、「掟」に反する行為は許さない。みたいなのが必要な気がする。人として犯してはならないもの。社会性や合理性、倫理、道徳を越えたもっと大切でシンプルなもの。今、「掟」みたいなフリをしておれら縛っているのは、先に述べた、利益社会が産み出した、人間関係の希薄さからくる昨今のいう「暗黙の了解」で、互いに触れざる犯さざるエゴの領域の不可侵みたいな、感じがします。twitter1つとっても、つき動かされる動機の中に「暗黙の領域」が明確に感じる。表現自由と言いながら、ものすごく不自由な感触がある。冗談1つ通じないみたいな。あるいはキャラ的な踏みとどまりを強制するような感触とか、このことは日本人にとっての「言語」について深く考えさせられた。無難さの奥に果てしなく広がる、「言語的な自己防衛」。そういうのを否定 してるんでなくて、自分自身もそうならざるを得ない感触。なんなんだろう。これは。twittetは脳の演出なのか?表現なのか? . 人々は自らの属するコミュニティにおける「暗黙の自己利益」をさも「掟」のように死守している。意見の隔たる者同士の理解が生まれにくくなっている。昨今の物事がなんか平行線を辿る原因なのかもしれない。たぶん、ほとんどが脳の宣伝なのかもしれません。人は自分を良く見せよう(あるいは逆説的に悪く見せよう)とする部分と、正直であろうとする2面性があるけど、演出である域を出ることはできないのが、言語の世界。日本語は行動、主体に辿り着く前に敬意と理由が必要な言語なのかもしれない。


詩や文学、今であればラップやリリック、歌詞。あるいは、こういうブログやTwitterでのつぶやき。自分は日本語は変えていけると思う。言葉を縛るものは単語よりは文脈。口語であれば、間や配列が産み出す意味性の変化。そういうのはどんどんやっていったらいいんだと思う。新たなる「掟」を産み出すためにも。

世の中を知ろう

麻薬やら性を牛耳る者の上にいるのが、賭博と興行(娯楽)を牛耳る者、
さらにその上にいるのが生活嗜好品(飲食物、衣類、家電や家具、自動車他)を牛耳る者、
さらにその上にいるのが交通流通を牛耳る者、
その上が土地建物、金融、証券(通信含む、今はそこに情報端末+)生活媒介を牛耳るもの、
さらに最上位が電力、水道、ガス、生活の血脈を牛耳る者。
世界のどこにいっても、この基本構造は変わらない。
下にいけばいくほど見た目はヤクザだが、
実質は上にいけばいくほど巧妙で暴力的で強大な権力を行使する超ヤクザです。
上にいけばいくほど一般の依存者は比較にならない数で増え、
最上位の電力、水道、ガスにいたっては、ほぼ全国民が依存者です。
大手の広告代理店などはあからさまに事業部分けにそれが現れてます。
大手の広告代理店は官制賭博や企業の広告がからむ興行より上を対象に宣伝補助の仕事をしていますが、
最上位は電気、ガス、次が公共官庁(水道含む)、次が金融証券(土地建物、通信含む)次が交通流通、
次が商業広告、次がサービス業(販売、娯楽、芸能、旅行含む)広告。
あたりまえと言えばあたりまえな構造の話ですが、
誰もがこのどの部分かに属して仕事をしています。
生活嗜好品(飲食物、衣類、家電や家具他)には生産者も含まれ、
かつては治水や農業生産が上位にいました。
今の原発の問題が深刻なのは、この構造の最上位に問題が起き、
実質、裁きが下せない現実が有るわけです。
建前と現実があるわけで、こういう世の中の有り様を知ることは、
今更ながら、大切な気がします。