2011年11月30日水曜日

血の中のアジア


先に書いた、「金」奉る国の続きみたいな感じですが、コラムを書きました。

前回のコラムでも書いたけど、かつての、朝鮮や中国への侵略は、本来は『大和(天皇制秩序)』の考え方ではない気がする。何故なら、大和の起源が、朝鮮や中国にあることと、元となる大和族の気質が『西に背を向け東(太陽)へ向かう稲作定住型の部族』であるからだ。過去に、朝鮮や中国(つまりは大和や弥生文化をもたらした邪馬台国などがその中国や朝鮮から来た大和)に侵略された民俗(本来、九州中心にいた海洋民俗)による傀儡大和(天皇制を利用した例えれば、満州国のような)明治政府の考え方なのだと思う。九州中心にいた民族は、倭冦と呼ばれ、厳密には、その拠点を九州のみならず、朝鮮半島、遠くはマニラ、に至まで、勢力をひろげ、歴代の中国、朝鮮王朝と激しく対立していた、『海の民』であり、現在、その民族の一部は日本に帰属したいるが、台湾、朝鮮、中国南部、他、様々な国にも分かれて帰属して、今は完全に融和している。

日本とアジアは、きちんと『アジア史』で解釈しないと、正しい認識には至れないほど、中国や、朝鮮と密接な関係に有るのだ。
秀吉の朝鮮出兵は『王を超える立場』を求めてのものであった。例えれば、課(日本国を束ねる大和)課長(の天皇の立場)から部長(朝鮮半島、日本列島を束ねる皇帝として、明の皇帝と対等な立場)を求めたのである。それも課長(の天皇の立場)の考え方では無かった。
元々、中国を頂点とする、アジアの秩序とは、『下克上を基本とする、中華思想』を元にしており、中国も、少数民族や他民族による王朝や支配も、あるわけであり、それが義にかなえば、『天の意』として、受け入れる思想があるのだ。倭冦の起源にあたる人々の中には、そういった世界を生きて来た、中華の郡族(中にはかつて王朝を築き上げた部族の末裔もいた)を元にしていたのである。同じ、中国、朝鮮を起源にしていても、大和と倭冦は全く違う部族であり、大和は『西に背を向け東(太陽)へ向かう稲作定住型の部族』であり、倭冦は、『西へ南へその勢力を広げる狩猟型(バイキングである、海賊、ヨーロッパに近い感覚)思考の海の部族』だったのである。今は、そんな様々な民俗が、解け合い、この国のややすると、一筋縄ではいかない『特性(民族性ではない)』を産み出している。侵略された者の血も、大陸を追われた者の血も、意識的に東へユートピアを求め旅立った者の血も、南から、クジラを追い辿り着いた者の血も、深く混ざり合っているのだ。大和という古い部族を起源とする、秩序は、まだ、今の様に混ざり合う以前に『意識的に東へユートピアを求め旅立った部族』により創られた『秩序』なのだ。


実は、漢人や、朝鮮人も混成民族であり、日本人同様に、流入してくる様々な部族と解け合い、成立っている。『地の営み』をそのまま『血』が背負うだけで、生物学的には、漢人、朝鮮人、日本人、は全く同じ、混成モンゴロイドである。一見、矛盾して見える対応と感情なのだが、例えば、中国や朝鮮の人達は、侵略的な日本の資質に多大な嫌悪と警戒を持っているけど、『日本の天皇』には、そういう感情を抱いていないよ、聞いてみれば解る。「え?なんでだ?」と、思うかもしれないが。彼らは明治政府が『傀儡』であったことをよく認識しているはずだ。彼らが嫌悪し、警戒するのは我々の血の中にある、『倭冦』の部分なのだ、それとは、もっと古く、長い、対立の歴史があって、それに根ざした『警戒と嫌悪』なのだ。彼らが学ぶアジア史や母国史にも、我々が学んだのとは違う意味で、同様に偏りが完全に無いとは言わないが、彼らの学んだアジア史や母国史を知れば、先に書いた対応には、何の矛盾も無いことが解る。
今や、完全に解け合って、自分の血の中には、両方、ないしは、もっと多くの血が混ざり合っている。それは、なんかメーターの針みたいに、ある時は『倭冦』の資質(とても、合理的で、ヨーロッパの考え方に近い)方に振れたり、あるときは、ものすごい古い記憶のように、『大和』の記憶の方に振れたりもする。どちらにも、良い部分と、悪い部分があるけど、バランスが取れるなら、この血の中の『選択肢』をとても、誇りに思うし、可能性にも満ちていると思う。それは、日本人だけでなく、同様に漢人や朝鮮人にも、入ってるんですよ。『倭冦』が解け合ったのは、あるいは、その起源は日本だけでは無いのだから。大和の民(部族)も、大陸から渡って来たのだから。

2011年11月28日月曜日

「金」奉る国。




ドイツかどっかで、お金を使わないで暮らす実験(?)してる人がいたけど、netや携帯使うだけで、お金使うことになるから、それも、使わないんだろうかと思う。労働や物の「物物交換」では暮らせても、その土台には、勝手にお金使うシステムが暮らしの構造土台になってるから、間接的には使わざるを得ない。労働の対価で、どこかに泊めてもらえても、その、泊めてもらう先は、その構造の中にいるから、お金使って、家に住み、光熱費払い、Networkにも金を払っている。これは、変な話。浮浪者ですら、もらったものであれ、拾ったものであれ、お金使わないと生きていけないのである。

ところで、かつて、お米というのは、律令体制以降の、「宗教と秩序」の国内普及のために、天皇制(大和秩序)手動で始まったことでは、あるけど、交換の媒介に、お金ではなく、「お米」をおいた(石高制度という独自の経済構造)は、世界でも珍しい考え方で、おもしろいとは思う。このルールに同意した様々な生活形態の人達(コミュニティ)が契約により天皇制(大和秩序)に属して(歴史に言う被支配とは少し違う、主権を委ねたというよりは、ルールを受け入れただけ)この国(?)は成立していったのだ。そもそも、農民はイコール百姓ではなく、税金は対価交換として、様々な生産物や、収穫物が、「米」と交換されるしくみはユニークで、実を伴い、各地で受け入れられていった。流通の促進そのものが「米」を中心としていたのだ。であるから、米は一時期、完全に貨幣となる部分と、同時に、庇護や社稷を奉るための、捧物の両方の意味合いを持っていた。争いを避け、庇護を受けつつ、様々な恵みを物物交換するための、大切な媒介であった。だから、日本が稲作を中心とする文化であるとするのは、間違いで、元々、様々な多様な生活形態や豊かなで高度な商工業従事者が沢山いる柔軟な都市文化を各地に持つ多民族列島であり、その流通、経済的媒介、宗教(というよりはある種の契約)のために、米を使う人々の島なのだ。とは言え、2000年の歴史において、前半、1000年は東北を中心とする、東日本は、大和体制(西日本国家)に所属すらもしておらず、稲作中心の価値構造すら無かったのだ。米以外の農耕と漁業、狩猟、商業を中心とした生活を築いていた。このくにの歴史の半分は東西2つの国で、できていたのは、昨今の学会では常識であるにもかかわらず、歴史教育ではそいう、認識は伝えられていない。完全に文化も生活形態も違う、2つの国のせめぎ合い(最初は武力的な争い、のちに交渉、契約による、平和的な帰属)そのものが、日本列島の歴史の本質なのだ。秀吉は西南制圧を統治の主軸に考えていたのに対し、家康は従来の大和体制の主願である、東北制圧を統治の主軸に考えていたため、征夷大将軍として、江戸に幕府を開いたのである。征夷の「夷」とは東北の国であり、秀吉路線が継続されれば、征明大将軍とか置いて、唐津に幕府を開いたかもしれないのだ。
先ほど2つと書いたけど、厳密には5つの異民族(大和でない国)のせめぎ合いかもしれない。沖縄、九州(一部中国四国)、大和、東北、北海道の5つ。明治維新はこの基本を念頭におくと、別の見え方がしてくる。あの維新の中心になった国は大和ではない九州(一部中国四国)の勢力であり、傀儡的に(大和秩序)を利用しつつ、近代国家を「でっちあげた」のだ。例えるなら、漢民族でない中国王朝に少し似ている。逆に、あの時制圧された、東日本の諸藩こそが、東日本支配のために出張統治をしていた、大和の武士達の藩であった。朝鮮侵略統治や、満州国のでっち上げなどには、徳川幕府(誓約による大和政権)ではなく、明治政府(傀儡による大和政権)の西南制圧の色合いが濃く反映されていた。

権威や体制の歴史はそんな感じだけど、そもそもが多種多様な種族の集まりである、この国の豊な文化や人々が大好きだ。ただ、政治的には、今だ、根の部分で、傀儡大和(明治政府)の名残による、支配的な東北政策(本来の征夷意識にプラス、オリジナル大和武士達への傀儡官軍による差別)があるような気がして、権威や体制の歴史を見る上では、正しい歴史認識が必要かと思う。出張統治をしていた大和武士達は、単に東北を支配するのではなく、契約による「夷」の人達と融和を試みてきた歴史があり、文化の融合と、大規模な開墾、治水事業、広大な水田と品種改良、などの努力を重ね、稲作地帯を創ることで、東日本を豊かな恵みある土地に変え、完全に和としながらも、維新当時は大和への忠誠を他のどの地域より強く維持していたのだ。
明治維新を押し進めた、九州(一部中国四国)の人々の中にも、多種多様な種族の集まりであるこの列島を強く認識している人達もたくさんいた。そういう人達の理想は、傀儡大和ではなかったのだけど、明治政府成立の過程で、変質したり、淘汰されたりしてしまった。それは、早急な近代国家化実現を優先する判断による部分も多いのだけど、その結果、歪んだ西洋化であったり、やや強引な統一国家化となってしまい、その弊害は現在にまで尾を引いているのだ。
本来、大和秩序(天皇制)とは「稲を実りの中心として奉る社会構造」そのものを信望し教義の中心とする宗教(宗教言えるかもよくわからないが)であったのだ。そしてこの列島の人々は、その、「社会構造のコンセプト」を受け入れ、それぞれの古くからの信仰は守りつつも、共存の文化を形成していったのだ。傀儡大和は近代化にあたり、単なる貨幣制度では無かった石高制度(実は大和という文化や価値観そのもの)を廃し、強引な貨幣経済化を押し進めたのである。明治政府成立にあたり、その「実」を失ってしまった傀儡大和の形骸化した天皇は、個人的には天皇ですら無いと思う。そして、今も、この傀儡大和が、この国の官僚制度と経済構造の土台を形成しているのだ。その結果、我々は「米」に取って代わった「貨幣」を奉る、世にも恐ろしい民と化している。

2011年11月20日日曜日

殺しの掟〜「宴」と「政」〜


「お膳」というのが、ある。日本では何をやるでも、この「お膳」が立ってないと、日本ではクラブイベントでも、人も入らないし、踊りもしない。「お膳」は日本の文化だから、善し悪しは無いのだけど、自分にはどうも不向きなところがある。特に音楽の場合はそうだ。メインに対してつけ添えのように組まれていく、音楽。なんだかな~と、思う。自分でイベントやるんでも、そういう「お膳」な組み方を避ける。そうすると、明確なイベントになんないので、人が入らない。「お膳」は年功や知名度などの序列がしっかりしてるので、「実」は音楽の内容よりは、「お膳」の組み方が、イベントの主旨になる。当然ギャラなどの「お金のかけ方」もそれが中心となる。解りやすいし、安定感があるので、お客さんは、各ジャンルの松竹梅を一目で見分ける。日本の文化だから、それはそれでいいのだけど、自分はそういうコンビニエンスな、パーティよりも、同じ日本の文化なら、亭主のらしさが滲み出る、寿司屋や、小料理屋なイベントの方が好きだったりもする。
「お膳」はOne Wayに見えて、その実はOne Wayではない。5皿料理みたいな感じで、西洋料理のコースでもない。引立てがしっかりしてるので、解りやすく、「お膳」を頂く「お客様」は思考や参画はせずに、与えられた「お膳」をおいしく頂く(楽しむ、踊る)のだ。自分は意外性の無いものや、予定調和があまり好きではないので、「お膳の見立て」(フラーヤー)を見ただけで、なんか味の創造がつくものは、どんなに有名なお料理が並んでいても、あんまし興味が惹かれないのだ。でも「お膳」が全て嫌いなわけでもない。旅行などは、若い人の嫌がる添乗員同行型のプランなどは、その、「お膳」にあたるわけだけど、あれは素晴らしい。日本人の余暇意識(独自のバカンス感覚)を熟知した、無駄の無い「おもてなし」を見立てるからだ。目的が明確に「余暇」にあるなら、個人旅行よりは以外と、有意義な「お膳」だ。目的が余暇に無いのであれば、当然、個人旅行を選ぶ。意外性や出会い、探し物がある時などは、特にそうだ。日本の週末の過ごし方も「日本的な余暇」をメインとするなら、数ある、様々なグレードの添乗員同行型の「お膳」なクラブイベントで十分なんだろうと思う。でも、そこには自分の場合、「意外性」も「出会い」もましてや「探し物(音楽)」などは求めるべくもない。

「お膳立て」というのを辞書で見ると、準備 ・ 用意 ・ 段取り(をととのえる) ・ 先回りする ・ 早手回しに ・ 手筈(てはず)がととのう ・ (必需品を)取り揃える ・ 手順をととのえる ・ アレンジする ・ 体裁(ていさい)をととのえる ・ しつらえる ・ 支度する ・ 「(それで)格好がつく」 ・ (成功を)アシストする ・ 演出する。とある。けして悪い言葉ではない。むしろ何事をするでも、催し物をうまく成功させるには重要なことであることが解る。クラブイベントであればそれに参加する主催者、アーティスト、お客さんが、皆、満足するためのは、むしろ必要不可欠なことに思える。では見方を変えて、政策などの「お膳立て」の意味を見ると、レールを敷く ・ 根回し ・ (~のための)地ならし ・ 環境づくり ・ (水面下での)工作 ・ 下準備 ・ (~のための)道をつける ・ 土台を作る ・ (~の)舞台装置を用意する ・ (~を)セットアップする ・ 受け皿を用意する ・ 下地を作る ・ 布石を打つ ・ (~するよう)仕向ける。とある。政策の実現というのが、目的の実現であることが伺い知れる。ここでやはり気になるのは、「膳を立てる」という事が、目的の実現ありきという部分だ。「何の問題があるのか?」と問われるかもしれない。「何をするでも、目的は重要ではないか」と。自分が気になるのは、「目的の実現」の目的の部分なのだ。どのような「目的」であれ、「お膳立て」をすれば目的は実現するように思えるからである。そもそも、「宴」は自由意志により、自然に立ちおこる物である。「お膳立て」を必要とするものは、目的が自由意志が集まって発生する「宴」そのものではなく「場」の維持である。やりたい事を継続するために必要なのは、「場」の維持であり、パーティそのものの存在だ。「宴」がより「式」と化していくのである。「儀式」と言ってもいいかもしれない。これは個人的な意見なのだが、政もクラブイベントも、この「お膳立て」が過ぎると、より儀式化していくのだ。先程の旅行の話だが、「お膳立て」のしっかりした添乗員同行型の旅行ほど、「もてなし」は充実するが、「お膳立て」のしっかりすればするほど、個人の旅行への意思や趣向はおざなりにされる。かつてバブル時代には、クラブ(当時はディスコ)も、箱自体が、2~3年おきに出来ては、閉めていた。これは、集客が悪くてそうされていたわけでは無い。最初から、「宴」を目的とする、運営者達が、不動産の契約を意図的に経営の範囲としていたからだ。だが、クラブやイベントも、とかく最近は長寿継続がもてはたされる。アーティスト個人の長寿継続は別に問題はない。だが、「宴」であるパーティや箱、あるいはバンドとかはどうなのだろうか?バンドなどは、より個人のアーティスト的特性が強い集まりであれば、そんなに問題は無い。全体で一つの音。宴では無いからだ。だが、目的が「宴」でなければ、バンドの活動も長期化する。儀式化し、その「宴」以外の目的のために「儀式」は継続されるのだ。音楽を演奏する上で、「宴」以外の目的とは何か?それは「収益」である。
「政」や公的な物も、その目的は本来、短期的なものであるはずだ。だから、民主国家では、2~4年で政権は交代していく。だが、それが損なわれる様な箇所(あるいは部署、省庁でもいい)「場」としてその目的が、「継続」に変わった存在は、目的そのものが、変質し、「収益の維持」のための「儀式」の運営に変わっていってしまうのだ。それは、もはや「政」ではない。「場に所属する者達だけ」の「収益を維持するための儀式」となってしまうのだ。

水濁るところには「宴」も「政」も存在しないのだ。そこにあるのは形骸化した「儀式化した異物」だけが存在する。

だが、「儀式」というものがが本来持つ目的とは、「収益」では無いのだ。それは「死の肯定」なのである。正確には「禊」であるべきなのだ。つまり、「収益」を目的として、儀式化したものは、「儀式」ですら無いのだ。「宴」や「政」は生産を軸としていない。つまり具体的な何かを産み出す存在ではなく、生産を軸とするものを、活性化させるための存在なはずである。であれば、儀式化した、それらは、何をも産み出さず、何をも活性させない、にもかかわらず存在する「収益のためのコミュニティ」にすぎない。
神聖なる「忌むべく禊」でもないのだ。恐ろしいことにそれらは「生の肯定」を顔に持つ。それは「死の肯定」をしない禊。忌むにもすら値しない存在ではないだろうか?

アメリカのロックバンド、グレイトフルデッドは「儀式」の意味を正確に把握していたように思える。
彼らのコンセプトは「宴」で始まり、「儀式」に収束していくその過程そのものであった。
バンド名は「葬儀屋」なのである。その実の部分に「収益」があったとしても、
彼らは、その葛藤そのものをバンド名に掲げ、パーティを長寿化させてきた。

クラブシーンの活性化には、やはり、儀式化した「収益のコミュニティ」に音楽的な銃の引き金を引く。
「殺し屋」が必要なのかもしれない。
レゲエのサウンドやアーティストが名前や曲名で使う、murderやKillarて、なんかそういう
仁義というか、映画の「殺しの掟」みたいな感じがして、いいなあ、と、思う。


2011年11月17日木曜日

歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの「日本史」

歴史の中で語られてこなかったこと
―おんな・子供・老人からの「日本史」 
網野 善彦, 宮田 登

この本やばいです。今、まさに、考えさせられる「日本はなんでこんななのか」その問いの鍵が、書かれている。
書評というよりは、感想文なんですが、里山の多義性。「田」が中心の治水は豊臣、徳川以降に作られた、天皇を中心とした国家認識の普及と中央主導の国土管理の推進によるもの....である事とか、自由主義的歴史観(私たちが学校で学ぶ歴史)は「現在」を発展の最上として肯定する「発達の歴史」だけど、真実は数ある選択肢の1つを結果として「選んでしまった」にすぎない。....である事とか興味深いことが対談の形で書かれている。明治政府による、「律令体制の復活と西洋ナショナリズムを強引に結びつける政策」の大きな誤り。その時産まれた「国土意識」が、太平洋戦争を引き起こしたことについては、さらに、個人的に考えると、現在なお根強く残るその「意識」から今の放射能汚染への政府の取組みの根本的な間違いが浮かび上がる。
天皇は本来、小さな村の神官と同様の祭事を執り行う、純粋に「霊的な社稷を取り仕切る者」として、存在していたのに(まさに、天子であろう)国家的な権威(主権の置き所)として、明治政府に利用された。今も本質は変わらないと思う。天皇は国家、国民の「象徴」ではなく、祭事を執り行う、純粋に「霊的な社稷を取り仕切る者の首長」なのだ。明治政府は、元々「政」「教」分離を自然とやっていたこの国の、ちょうどローマ法王やダライラマにあたる立場の人を「無理矢理西洋的な国王」に仕立て上げ、政教合体をさせてしまった。その影響は今の憲法にまで、なごりがあって、国家の憲法で天皇を定義すること自体が「国王」としての認識であり、現在の「日本国憲法」は根本的な間違いを犯している。明治政府の愚行が、本来我々が持つ霊性(スピリット)の欠落を産み出す原因の1つであり、それは、今のも継続されてしまっているのだ。
さらにさかのぼれば、日本において政教分離の擁護を原始的ながら、明確に打ち出したのは平将門であり、平将門は敗退するものの、その考えは主流となる。そもそも、あれは、反乱の鎮圧ではなく、本来、東国は宗教的な帰順はしていたものの、「別の国家」であり、歴史の記述の誤りは、「征伐」とするところ、あれは「西国による東国の国家侵略戦争」であり、征伐ではない。そもそも大和朝廷は宗教的な恭順を求める、例えるならヨーロッパにおけるローマ教皇の存在であり、国家として日本列島が意識されたのは、豊臣、徳川が最初であり、それでも徳川幕府は連合国国家だった。200年かけて、独自の統一国家の体制確立を模索しつづけ、その確立の基盤に「天皇という宗教的存在」を置いた故に、明治政府による、「契約の無い、なし崩し的な、統一国家の実現」に利用された。国家形成の成り立ちそのものに、最初から、国権の意識が薄く、それが根本原因で、現在においても「主権」と称されるものが、借り物というか「絵に描いた餅」の様になってしまう原因がある。逆に、明治政府が断行した、天皇主権が国家形成の基本にあるなら、日本国憲法は記述の改正と共に、「天皇」は「国民」への主権の禅譲をするところからやり直さねばならない。それが、現在の官僚支配の根本原因でもあるからだ。孝明天皇いわく「官位昇進の宣下をしたのは誰か」という話である。そもそも官位とは何か?日本国政府(その官位保持者)は天皇制を精神的にを僭称し、政教ごちゃまぜにして、我が国を支配している。
日本国憲法記述の国民主権を実のあるものにするには、官位任命権は主権者であり、実質上の国権所有者である我々が行うものであり、「象徴」の記述、及び、官位の存在の仕方そのものの誤りを正さないとだめだと思う。「官位」の廃止をするか、あるいは主権の完全移譲を行い、我々が官位任命者(極端に言えば皆が天皇にならないと)ならない。現実的には、「象徴」の記述を外し、省庁を名称から廃止し、別名で再編。「官位」という考え方を全て政治から切り離し、宗教(天皇)側へ戻す方が現実的だ。日本の「官僚制度」の成り立ちが、明治憲法、現日本国憲法を股がって存在する以上、孝明天皇も危惧した、伊藤博文による、「天皇側の制度の傀儡利用」を成り立ちの基本とするわけだから、そんな無礼な制度は変えねばだめだと思う。天皇は国王ではない。過去に国王を自ら称したのは、平将門と豊臣秀吉だけだ。

 アイヌや沖縄を除いて概念化された、「日本」という存在。南や北にいけば行く程曖昧化する概念であり、実際、国境ですら南端と北端では曖昧である。我々は本当に「国家」なのだろうか?元々、独自な「国家を指向しない民」(実際、農民という帰属の概念は曖昧で、強引な代物だし)で成立つ、不思議の島、日本列島。様々な生活の営みをする、部族間の相互契約で成立って来た、非中央集権的な民族(歴史において語られるのは上辺なのだ)鎖国以外に国家の「態(てい)」を維持する方法が無いほど、海に無限の広がりや繋がりを民レベルで持っていた。本来が自由な人々の島。鳥居は海に向けられている。あれは、灯台ではないのか?定住ではなく、Home Town、ただ、帰る町として、アジアの様々な多民族が共同で愛した島。日本列島。見えて来る日本列島のイメージはものすごく巨大で、それでいて、とても慎ましいものだ。アメリカや中国とは全然異なる、多民族性を持っている。そりゃ、アメリカさんや、中国さんには脅威に映るかもしんないねえ。





2011年10月13日木曜日

独りを好む癖



自分には妙に「独りを好む癖」というのがある。
それはある種の自己防衛かと思い、あまりに弊害が多いから一時期、正そうとしたのだが、
そういうものでは無い様だ。
ある人には「友達甲斐が無い奴だ」と言われ、ある人には「愛が無い」と言われた。
でも、そんなこと言う奴に限って、
長く疎遠になっても、また合うと、なんら変る事無く、接してくる。
まるで、年月の壁など無いかのごとく、打ち解けた感じで、
しかも、そういう関係を持てるのはお前だけだとまでぬかす。
勝手なものだ。

「独りを好む癖」いったいいかなるものか?
そのヒントは思い当たる。

中学生の頃、学習雑誌、チャレンジ(福武書店刊)を購読していた。
家で予習復習だの勉強だのを、ほとんどやらない(テスト前ですら)タイプのガキだったおれは、チャレンジにもほぼ全く手をつけたことなんかなかった。
それでも、毎月、楽しみにしていたのは、巻末の方(だと思う)に連載されていた4コマ漫画、永島慎二の「独りくん」が大好きだったからなのだ。
「独りくん」、学習促進雑誌、チャレンジには似つかわしく無い、学習に明け暮れ、より高学歴を目指すのが当たり前なご時世に、何かこう、別の世界の存在を示唆するような漫画だった。
あの漫画の影響は、ただでさえ、むやみやたらと学習することの嫌いだったおれにとって、音楽(当時はRCサクセションが大好きだった)と並んで、絶大な影響と救いをもたらした。
「おれみたいな考えで生きていてもいんじゃないか?」と思わせる強い「何か」があった。
主人公は全然可愛く無い孤独な中学生の独りくん。
一番最初の話(4コマ)口笛で犬を呼んで、寄って来たその犬を殴りつけて『人間に気を許すな!』なんて言って立ち去るという、おせじにもかわいい良い子とはほど遠い少年だ。
いきなり見知らぬ人を殴りつけて『イキがってるヤツより孤独がってるヤツがキライだ…………目をさましたら早いとこそんな気分はすてるんだ!!』なんて言ってみたりする、妙にマセてるんだか?なんだかな少年なのだ。
その後、高校生以降は何故か疎遠になっていた、永島慎二の漫画だが、30代も半ばを越えた頃から、古本店で著作を何気なく購入したところから、取り憑かれたように大ファンになってしまい、古書店で見かけるたびに購入するようになってしまった。
それというのも、あの独特なベンシャーンの影響を受けたと思われる絵柄、簡素ながらも練られたトーリーと細かなデティール。日本の漫画を、内容だけでなく、唯一「オシャレな絵だなあ」と思える作家であり、ただ、眺めているだけで、何度見ても飽きがこない。
今でも、大好きで何度でも読み返すのが、代表作、『漫画家残酷物語』でだったりする。
中でも、登場する恥ずかしいほど薄幸を絵に描いたようでいて、芯の強さを感じさせる、ヒロインに心奪われてしまうのだ。
永島慎二の描く女の子は、それが清純であれ、ものすごいビッチであれ、一環して独特な魅力を持っているのだ。
でも、それは、どんな女の子でも、本来なら持っている、リアリズムと純粋さをバランスよく共存させている、強力な日本の女性象そのものの様な気さえする。
彼女達はもう、絶対、男の気持ちなど理解できないし、願望と欲望に翻弄される男共と交わる事の無い世界観を、時には残酷に、時には自らの命を投げ打ってでも、見せつける。
純粋な裏切り、そして、その燐と立つ姿、その眼差し!
そういう女性を無意識にもおいかけていた、若き日の自分自身がいるものだから、共感たるや、いい歳して恥ずかしいほどだが、今も変らない。
そんな反面、漫画から、時代の臭いや「場」の存在感を感じる漫画も他に類を見ない。
それは、今現在でも、失われた様でいて、その実、全く失われずに、街角から漂う、人のいる気配いとでもいうようなものかもしれない。
そうか!街が「独りくん」を創るのだ。
本当に独りだったら、「独りを好む癖」無いのである。

棒がいっぽんあったとさ。(高野文子と黒澤明)


自分は船橋にある高根台団地で産まれた。
そのあと稲毛~西千葉の海岸線にあるマンモス団地、幸町で小学校3年終わりまでをすごした。
時代は高度成長期真っただ中の1970~1976年頃だから、
巨大な団地は活気に溢れ、賑やかな子供達の声が響いていて、
今は絶対あり得ないんだろうけど、夏になると、
団地の隙間にあるような公園から真上に向けて打ち上げ花火を上げていた。
まだ、真新しかったカラーテレビをつければ、月面を歩くアームストロング船長。
お茶の間からみんなで、月から送られる、地球の姿を見つめていた。
また別のシーンでは、モウモウと上がる砂煙の中を、デモ隊のバリケード封鎖に機動隊が突入していた。

あれから、40年の月日が流れた。高野文子の漫画、『棒がいっぽん』を読んだ時、
鮮やかにあの頃の臭いが蘇るとともに、あの頃は子供で思いも及ばなかった、
当時の大人達の心境、目まぐるしく変りながらも、どこか、その速度に心なしか躊躇いを感じながら、
生きる自分の父や母にあたる世代の心象が、大人になった自分に、すっと入り込んできた。
ふと、実家で父と話していて、思ったのだが、父の世代は、80歳になる今も、
その戸惑いを抱えながら生きている事に気づかされた。
戦後、日本という国を支え、引っ張っていったのは、
政治家でも運動家でも作家でもなくて、どこにでもいる、そんな、大人達だったのだと思う。
その戸惑いの中に、丁度、原子力発電も建設され、後ろから背を押されるように
「生活の向上」を受入ていたのかもしれない。

(http://ja.wikipedia.org/wiki/棒がいっぽんから抜粋)
『棒がいっぽん』(ぼうがいっぽん)は、高野文子漫画作品集。19957月にマガジンハウスより刊行された。1987年から1994年にかけて発表された6作品を収録している。高野の5冊目の単行本であり、短編集としては『おともだち』以来12年ぶり3冊目のものとなる。表題は収録作品『奥村さんのお茄子』の作中で用いられている絵描き歌『かわいいコックさん』の歌詞から。


深淵まで降りて行こう。本音まで降りて行こう。
日本人という生き物は、実はもう「ローマ帝国の競技」から足を洗いたいのだ。
自虐の果てまで降りねば気が済まぬほど、
自ら(国土と自然)を傷つけたことを深層心理で悔いている気がする。
日本人はヨーロッパ人では無いから、後悔と自虐の念が強すぎるのだ。
合理的にかたずけてしまえないのだ。
2000年の歴史において、最悪の失態を母なる大地を失うことへの自責の念が強すぎるのかもしれない。
本当は皆で泣き出してしまいたいほどに。
これだけは、西洋人には絶対理解できない心境だ。
ひょっとすると、どこかで、こうなっててでも、この西洋文明から抜け出す糸口を無意識の内で、
欲しているようなところさえあったのだ。
日本人は今。原発を盾に、徹底的に西洋文明を破壊しようとしているのかもしれない。
あの映画、ゴジラのように。
申し訳ないがキリスト教徒の自然や生命のエネルギーと戦うような思想が、日本人には無いのだ。
滅びを祭りと捉え、破壊をどこか受け入れてしまえる気質を持っている。
山や川や海や穀物と自分との間に、合理的な境目を持てないのだ。
西洋の思想から見ればナンセンス極まりないのかもしれない。
でも、なんの違和感も無く、木々な流されれば、自らの身も流される。
大地や田畑、海が犯されれば、自らの身体もその毒に晒してしまう。

ただ、放射能。今回は相手がでかすぎる。
いままで十分すぎるほど葛藤してきたのに、深層の底の底まで押し殺して生きてきたのに、
こんな顛末を向かえてしまうなら、子供達にその贄を押し付けることなどできない。
もう堪える必要など無い。
世界を相手に戦争までして、ここまで来たのだから、意地を張るにはリスクがでかすぎる。
もう、自分をごまかすのはやめにしようかとも思う。

虚勢を張る日本政府と、日本企業が、まるでかつての大本営の様に、「希望」を偽り続けている。相手は人ではないから、勝ち負けなど無いのに、放射能に屈服することを認めたく無いのだ。我々は真実を隠され、本土玉砕に突入している。心を鬼にして若者や子供達と決別しないといけない限界が近づいているような気さえする。

自分の身近な人には、偶然にも福島出身者が多い。
彼らは、毅然としている、その反面、彼らの口から知らされる身内の真実は、毅然と淡々と話すから、なおさらその重みを感じざるを得ない。福島の人の気質なのかもしれない。
ある人は東京で自分のそれまで関わってきたものを全て投げ打って半年間、身内の救済に向かった、東京に帰って来た時、それまで得たものは全て失われていた。それでも、なんてこと無いように自力で再生へ向かう。
ある人は一時期家族の避難を東京で受け入れる。でも、準備の無い所に、いきなり家族がまるまる、上京するというのは、それまでの生活の崩壊を余儀なくされる。妻の居場所は無く、短期間だけ、別々に暮らすことを余儀なくされていた。家族は福島へ戻ったらしいが、正直、多大なストレスが彼に残ったと思う。
そして、現状を話す。保証の話など、まるで進んでいない現実。
若い女性に向けられる、哀れみにも似た排他と差別の眼差し。
保証の話がまとまらないと、脱出しようにも、どうにも動けない(自主避難者への保証は後手にまわる可能性があるからだ)。
生き殺しである。
今、福島200万の人々に必要なのは、復興や援助では無く、救助だ。
しかも、彼らは放射線を厳密に気にしていたら、生活もままならないから、無視せざるえない状況にいると聞いた、それを知らされた時、あるいは、関東でストロンチウムだのプルトニウムだのの検出のニュースを知るたびに、毎日、想像を超える、もはや検査さえする気にもなれないほど、膨大な量の放射線にさらされている200万も人々を思うと、自分の国を憂うだの主義主張などが霞の様に消えていくのを感じた。
もはや、この国は。国の方向だの、復興だのを奇麗ごとを並べて議論している余裕など、微塵も無くなってしまった。国益なんか全てかなぐり捨てて、アメリカ合衆国の属国になってもいいから、TPPを受入れ、米国の全面支援の元、今すぐに福島200万の人々を救助すべきだとさえ思えてしまう。

自分個人の思惑など、もはやどうでもいいところまで来てしまった。というまさにそれが、目論み通り、某国の手の内に乗ることだとしても、プライドを棄ててでも、現実的にはまずは、放射線への敗北を認め、東北1000万の人々を救助することが最優先に思える。
屈辱でも受入ざるを得ない状況を作られてしまったのだ。でも、であるが、「道」は1つでは無いことに変わりは無い。どんなに回り道でも、この屈辱を受け入れ続けることはできないし、なしくずし的な日本政府のやり方は、卑劣極まりない。
それは解った上で、あえて、それでも、東北1000万の人々を救助することが最優先に思う。
気が狂いそうなほど屈辱的で無念だ。

戦後の焼け跡に、未来を模索する、若者を描いた、黒澤明「素晴らしき日曜日」という映画がある。
その映画を見た時に、個人では抗うことのできない屈辱の中でも、
自分自身を鼓舞し、傷つきながらも前に進もうとする、若者の葛藤が描かれていた。
「夢見る」というのは、どういうことなのか?
なんの葛藤や屈辱も無いところに立って、「夢見る」ことなど出来ないのではないか?
想像を絶する理不尽さは、皮肉なことに、今もあの頃も変らない。
僕らには、躊躇いながらも、前に進む事。「夢見る」ことをやめない事以外に、
何ができるのだろうか?

戦争の傷跡が残る東京。
幸い職についてはいるが、友人の家に居候の雄造(沼崎勲)、姉の家に同居の昌子(中北千枝子)のカップル。一緒に住む事もままならず、週に一度、日曜日にお互いに会える事だけが唯一の楽しみであった。しかし、手持金はわずか35円(現在の貨幣価値に換算すると、約3,500円)。それでも楽しいランデヴーを計画する2人の前に、切なく惨めな現実が立ちはだかる。
真面目に生きる事のむなしさに失望しそうになりながら、二人は喫茶店を開く夢を語り合う。


戸惑いに立ち止まる力と、夢見ることのバランス。
今の僕らは、その力だけはあるような気がする。

話は逸れるが、最近の実験結果で、相対性理論が崩れそうな、
光より早い物質の可能性がある話がある。
自分はカンで、時間なんて人間の作った概念で、本当は無いんじゃないか?と思ってたのが、
概念の最高峰の側から崩壊しはじめた。
2日前と2000年前に差が無いという感触。
今見える星は、実はすごい過去の姿と、言うけど、そうなのか?
時間と距離の同時性すら、人の思考の限界にすぎない。
あれは、今の姿だと思う。視覚の方が正しいかもしれないと思うのだ。
また、自分は感触としては音の方が、光より速度が早いと思う。
音の速度は到達を基準に量れないと思うのだ。より深度(というか密度?)のほうで速度が上がる。
例えば、意味性の伝達を試みる時、視覚的速度のみに気をとられた、ファ二イな現代アートや広告より、
昔の絵画の方が速度を感じる時がある。
美術館にいけば一発でわかる。昔の絵画。アイキャツチは現代アートみたいに強く無いけど、
一発で深淵に引き込まれる。どちらが、速度が速いのか?

SFの世界では、すでに同時性の捉え方が少しふみこんでいる。
時間を立体的な群でとらえる考え方で、
ある一定の距離と時間の範囲内(過去と未来)を相互干渉を受ける範囲として(たとえば10万光年の360度距離と時間範囲は同時性を持つ)その群全体では時間が進む。みたいな。
でも、時間と距離と干渉に関して、自分は少し違った考えを持ってる。
SFは速度に関して、物理的なテクノロジーの進化を基準にしているように思えてならない。
つまり、移動能力におけるスピード(時間短縮)に偏重しすぎている。
でも干渉力とはそうなのだろうか?
たとえば、ダンスというのは、体と感性のシンクロだと思うのだけど、
物理的な身体性とテクノロジーに偏重すると、どんどんドンシャリ(低音と高音)がより刺激性を強め(強調部のみの進化)、感性の方の速度感自体を歪めていく気がする。
移動と干渉。
あるいは、1万年前に100人がモンゴルからアラスカまで半年かけて移動したとする。
その100人の与える干渉力と、1日でいったり来たりするような高速移動でモンゴルからアラスカを半年でのべ5000人がいったり来たりするのとでは、どちらの干渉力がより強力で速度があるのか?
なにか「伝わる」ものがあるとして、どんなに高速移動でその表層と情報が飛び交っても、その「伝わる」ものの本質が欠如していたら、(あるいは受けてが、表層のみを取り入れ、本質を無意識で拒んでいたら)それは「伝わってない」のと同じなんじゃないだろうか?

web上で言うのもなんだがネットによるコミュの促進てそんなに必要なのだろうか?
と、思えるときがある。
自分は性根が薄情なタイプなのか、最近あまり、必要を感じないのだ。
そんなに多くの人とコミュニケートしないといけないのか?
それができるなら、極端な話、伝達を軸に考えると、音楽や文学などはいらなくなってしまう様な気がする。
コミュが深まれば、深まるほど、コミュ内の関係は均一化し、売り手と買い手なんて、下品な構造が見えて来たりして、一層、人は人の表現やなんかに興味を示さなくなる。
既存の売り手が、その危惧から、黙すれば黙する程、気づかぬ内に市場との距離が生まれ、「伝えたいこと」ではなくて、「売りたいもの」と化してしまう。
そうなればなるほど内容なんてどうでも良くなっていく。
進めば進むほど誰でもよくなっていく。
ものごとには「辿り着き方」というものがあるのだ。
全てが掘り起こされて明るみに出る時代。それは、走馬灯の様に全て「なかったこと」に向かっていってるようにも見える。
また、twitterなどの速度の早い情報と、それに関わる議論がみんなの意思の操作の無い体系ということだと、政治もまた、表現同様、必要無くなっていっている。
政治というのは、操作と失敗を前提としないと何もできないからだ。
失政は政治の本質なのだ。
全てが明るみに出て、その速度が凄まじいあまり、結局何もできないとか、何も産まれないんじゃ、なんのための速度なのか?
全ての幻想が打ち砕かれた時、その荒野にはいったい何が立ち上がってくるのか?
少し怖い。

急速に(少し異常なほどに)需要がへる音楽(CDや配信)や書籍(雑誌から文学に至まで)を見ると、それらがWebに集約されてるとは思えない。
音楽や文学はメディアでは無いのに、商品として、ITメディアと競合してしまい、今や壊滅の1歩手前まで来ている。
政治でも、化けの皮が剥がれた政界に、哲学の欠片もない不毛の荒野があるなら、誰がTwiiterの情報速度の全てをねじ伏せれるだけのバランスのとれた哲学センスを持って、政界に立てるのか?
ユビキタスが人々の意思をもその構造体の基盤に取り込み、最後には「機能」だけがまるで、人類誕生から続く真実かのごとく立ち現れるなら、やはり、悪魔に魂を売り渡してでも、自分個人は「人」という動物の一種族である道を選ぶ。それだけは譲れない。どんなに時代にそぐわなくても。

2011年10月12日水曜日

国を売り、人を救うか?


最近思うのは「道」は1つでは無いのでは?と思う。選択肢があるのだ。政治を司る者の基本的な考えはこうだろう、「除染するにしろ、復興をするにしろ、経済力抜きにには何もできない、多少の犠牲を払っても、(あるいは嘘があろうと)経済力の維持がさらに悲惨な事態を回避する絶対条件だ。」国民を犠牲の上では意味が無いと思えるが、さらなる犠牲を押さえるためであれば、悲しいが一理ある。だが、それも「国の維持」を前提とした考えだ。「国」というのが、「人」をさすなら、人を犠牲に国の維持はおかしいのだ。それは「利権者の国」をイメージしてしまう。もう一つの道、「国」が「利権者の国」であるなら、民にとって、「国の維持」すら必要無いのではないか?という考え方だ。厳密に「人」を重んじて対処するなら、国土の半分を失う。それではこの国は狭すぎる。TPPは国家の自主権や独立、自立維持を前提とすれば、最悪の内容だ、だが、「アメリカへの植民地化」を肯定すればどうか?途端に合理的な道筋に見える。戦後の「占領」で国難を乗り切ったのなら、今は「植民地化」で国難を乗り切る方策だ。EUの様に、アメリカとより共同体化する道。個人的にはアメリカの州になった方が早いんじゃないか、とさえ、思える。そうなれば、狭い国土は一気に巨大な国土(?)へ変る。現在の経済力が衰退する、その前に、アメリカと合併するということだ。もはや、国なんて、企業体みたいなものだから、合併。経済至上を考えれば合理的だ。現政府はこの方向も模索しているかもしれない。

もう1つの道。中国への帰属。これは現実的では無いかもしれない。何故なら、これに一番拒絶を示すのは、中国以外の多くの国が拒むだろうから、アメリカ、韓国、台湾、ベトナム、フィリピン、ロシア、数え上げたら際限ない国が拒絶するはずだ。自国の自治を脅かす強大な経済、軍事国家の出現であるわけだから、反原発、反TPP、反米、反戦を掲げ、この挙げ句が、中国社会主義への接近だとするなら、最悪の偽善だ。何故なら、それは反原発も反戦も到底望めない道だからだ!世界の脅威。中華日本人民共和国。そんなものが出現したら、東方ロシアは気が気じゃない。朝鮮半島や台湾なんかひとたまりもない、東シナ海沿岸だって、その強大さの前に自国の自治など維持できるかは微妙だ。放射能で汚染された太平洋の海域は完全に制圧される。今の米国にそれと対峙するほどの力は無い。それは共産主義者による、大東亜共栄圏の誇大妄想であり、中国が党幹部による利権独占の疑似資本主義路線をとる以上、ただの屈折した全体主義にすぎない。真の共産主義革命を実現しよう、と、言うなら話は別だが、それなら最大の敵は、中国共産党であり、党幹部による利権独占の疑似資本主義を打倒し、中国人民を解放しないとならないわけだから。それは、中国やアメリカ相手に再び戦争したいです。と、言ってるのと同じで、ナンセンスだ。それでも、あえてその道を皆で進むのなら、そういう選択を選ぶなとは、言えない。独自の国民主権国家を目指す道は、困難だが、理想ではあるのだ。ただ、それは中国への帰属ではない。

最後にもう1つの道。全ての経済的関係の遮断、自給中立独立。鎖国に近いが伝統維持の自立の道だ。その道は無理強いはできない。何故なら貧しいところからの再興であり、放射線とは格闘せねばならないのだ。今の豊かな暮らしを望む者は、国外へ出るだろうし、それを拒むことはできない。国(というか人)の分断を前提とした道だ。実はぼくは右翼な部分が強く。そこらへんのわけ解んない国粋主義者とは一緒にしないでほしいが、天皇制の完全機関化により、この国の伝統と歴史を守るべきだと思っいる。そのためには、国民への正式な主権の禅譲を儀式として行うべきであり、現陛下には姫姓を与え、天皇の位を永久空位とすべきである。それが米国により中途半端に存続させられている、天皇陛下の状態を明確なもの(1国民に戻っていただき)国民の主権を、自らの判断で掴み取る、唯一の方法であり、「國返し」の儀礼だと思う。真の主権者となった、我々を、国家は無下には扱え無いはず。真の主権の獲得は、同時に国への責務の獲得でもあり、今までの様に、構造や体制に依存することは許されない。日本における主権は、他の民主国家や社会主義国家のそれとは大きく異なるのだ。今まで天皇家が司った、社禝の義務をも引き継ぐのだから。この主権は、民族、人種を問わず、この国を愛し、自らの意思で、この国の国籍を望む全ての人に与えられるべきだ。自分はその主権を望まぬ者への参政権は認めたくない。責任無き参政はあり得ないからだ。 自分は今まで無神論者だったけど、今程、精神性の重要さを感じたこともない。宗教への依存はすべきでないが、アイデンティティの復権を模索しないととは思う。それが、宗教と呼ばれるものかは解らないけど。個人的にはこの選択を選びたい。

このまま、なしくずしに汚染の拡大が広がれば、望むと望まざるとクロスロードへ向かうことになる気がする。

深淵まで降りて行こう。本音まで降りて行こう。日本という生き物は、実はもう「ローマ帝国の競技」から足を洗いたいのだ。自虐の果てまで降りねば気が済まぬほど、自ら(国土と自然)を傷つけたことを深層心理で悔いている気がする。おれたちはヨーロッパ人では無いから、後悔と自虐の念が強すぎるのだ。合理的にかたずけてしまえないのだ。2000年の歴史において、最悪の失態を母なる大地を失うことへの自責の念が強すぎるのだ。本当は皆で泣き出してしまいたいほどに。これだけは、西洋人には絶対理解できない心境だ。どこかで、こうなっててでも、この西洋文明から抜け出す糸口を無意識の内で、欲しているようなところさえあったのだ。我々は原発を盾に、徹底的に西洋文明を破壊しようとしているのかもしれない。ゴジラのように。申し訳ないがキリスト教徒の自然や生命のエネルギーと戦うような思想が、日本人には無いのだ。滅びを祭りと捉え、破壊をどこか受け入れてしまえる気質を持っている。山や川や海や穀物と自分との間に、合理的な境目を持てないのだ。西洋の思想から見ればナンセンス極まりないのかもしれない。でも、なんの違和感も無く、木々な流されれば、自らの身も流される。大地や田畑、海が犯されれば、自らの身体もその毒に晒してしまう。こういう感覚を本音で自らに感じない若者は、ためらうことなくこの国を棄て、アメリカ人になるべきだ。いや、むしろ、それが自然な世代もいるのかもしれない。何故なら、そんな世代の中では、とっくにThe End of Japanなはずだから。それは新世代の生き方かもしれない。

ただ、放射能。今回は相手がでかすぎる。十分すぎるほど葛藤してきたのに、深層の底の底まで押し殺して生きてきたのに、こんな顛末を向かえてしまうなら、子供達にその贄を押し付けることなどできない。もう堪える必要など無い。世界を相手に戦争までして、ここまで来たのだから、意地を張るにはリスクがでかすぎる。もう、自分をごまかすのはやめにしようかと思う。虚勢を張る日本政府と、日本企業が、まるでかつての大本営の様に、「希望」を偽り続けている。相手は人ではないから、勝ち負けなど無いのに、放射能に屈服することを認めたく無いのだ。我々は真実を隠され、本土玉砕に突入している。心を鬼にして若者や子供達と決別しないといけない限界が近づいているような気さえする。

自分の身近な人には、偶然にも福島出身者が多い。彼らは、毅然としている、その反面、彼らの口から知らされる身内の真実は、毅然と淡々と話すから、なおさらその重みを感じざるを得ない。福島の人の気質なのかもしれない。ある人は東京で自分のそれまで関わってきたものを全て投げ打って半年間、身内の救済に向かった、東京に帰って来た時、それまで得たものは全て失われていた。それでも、なんてこと無いように自力で再生へ向かう。ある人は一時期家族の避難を東京で受け入れる。でも、準備の無い所に、いきなり家族がまるまる、上京するというのは、それまでの生活の崩壊を余儀なくされる。妻の居場所は無く、短期間だけ、別々に暮らすことを余儀なくされていた。家族は福島へ戻ったらしいが、正直、多大なストレスが彼に残ったと思う。そして、現状を話す。保証の話など、まるで進んでいない現実。若い女性に向けられる、哀れみにも似た排他と差別の眼差し。保証の話がまとまらないと、脱出しようにも、どうにも動けない(自主避難者への保証は後手にまわる可能性があるからだ)。生き殺しである。今、福島200万の人々に必要なのは、復興や援助では無く、救助だ。しかも、彼らは放射線を厳密に気にしていたら、生活もままならないから、無視せざるえない状況にいると聞いた、それを知らされた時、あるいは、関東でストロンチウムだのプルトニウムだのの検出のニュースを知るたびに、毎日、想像を超える、もはや検査さえする気にもなれないほど、膨大な量の放射線にさらされている200万も人々を思うと、自分の国を憂うだの主義主張などが霞の様に消えていくのを感じた。もはや、この国は。国の方向だの、復興だのを奇麗ごとを並べて議論している余裕など、微塵も無くなってしまった。国益なんか全てかなぐり捨てて、アメリカ合衆国の属国になってもいいから、TPPを受入れ、米国の全面支援の元、今すぐに福島200万の人々を救助すべきだとさえ思ってしまう。

自分個人の思惑など、もはやどうでもいいところまで来てしまった。というまさにそれが、目論み通り、某国の手の内に乗ることだとしても、プライドを棄ててでも、現実的にはまずは、放射線への敗北を認め、東北1000万の人々を救助することが最優先に思える。屈辱でも受入ざるを得ない状況を作られてしまったのだ。でも、であるが、「道」は1つでは無いことに変わりは無い。どんなに回り道でも、この屈辱を受け入れ続けることはできないし、なしくずし的な日本政府のやり方は、卑劣極まりない。それは解った上で、あえて、それでも、東北1000万の人々を救助することが最優先に思う。まさに以前、懸念した、「卑劣な命の天秤の策」は完成されようとしているのかもしれない。気が狂いそうなほど屈辱的で無念だ。

話は逸れるが、最近の実験結果で、相対性理論が崩れそうな、光より早い物質の可能性がある話がある。自分はカンで、時間なんて人間の作った概念で、本当は無いんじゃないか?と思ってたのが、概念の最高峰の側から崩壊しはじめた。2日前と2000年前に差が無いという感触。今見える星は、実はすごい過去の姿と、言うけど、そうなのか?時間と距離の同時性すら、人の思考の限界にすぎない。おれは、あれは、今の姿だと思う。視覚の方が正しいかもしれないと思うのだ。また、自分は感触としては音の方が、光より速度が早いと思う。音の速度は到達を基準に量れないと思うのだ。より深度(というか密度?)のほうで速度が上がる。たとえば、凄いゆったりめのルーツチューンの方が、ダンスホールやスカより速度を感じる。個人的には。例えば、意味性の伝達を試みる時、視覚的速度のみに気をとられた、ファ二イな現代アートや広告より、昔の絵画の方が速度を感じる時がある。美術館にいけば一発でわかる。昔の絵画。アイキャツチは現代アートみたいに強く無いけど、一発で深淵に引き込まれる。どちらが、速度が速いのか?おれがキリスト教徒がやべえ!と思うのは、わけのわからん教会のやり方でも自虐的な西洋文明でも無くて、クラシック音楽だ。最速BPMのテクノの1000倍は速度を感じたりする。


 SFの世界では、すでに同時性の捉え方が少しふみこんでいる。時間を立体的な群でとらえる考え方で、ある一定の距離と時間の範囲内(過去と未来)を相互干渉を受ける範囲として(たとえば10万光年の360度距離と時間範囲は同時性を持つ)その群全体では時間が進む。みたいな。時間と距離と干渉に関して、自分は少し違った考えを持ってる。SFは速度に関して、物理的なテクノロジーの進化を基準にしているように思えてならない。つまり、移動能力におけるスピード(時間短縮)に偏重しすぎている。でも干渉力とはそうなのだろうか?たとえば、ダンスというのは、体と感性のシンクロだと思うのだけど、物理的な身体性とテクノロジーに偏重すると、どんどんドンシャリ(低音と高音)がより刺激性を強め(強調部のみの進化)、感性の方の速度感自体を歪めていく気がする。移動と干渉。あるいは、1万年前に100人がモンゴルからアラスカまで半年かけて移動したとする。その100人の与える干渉力と、1日でいったり来たりするような高速移動でモンゴルからアラスカを半年でのべ5000人がいったり来たりするのとでは、どちらの干渉力がより強力で速度があるのか?なにか「伝わる」ものがあるとして、どんなに高速移動でその表層と情報が飛び交っても、その「伝わる」ものの本質が欠如していたら、(あるいは受けてが、表層のみを取り入れ、本質を無意識で拒んでいたら)それは「伝わってない」のと同じなんじゃないだろうか?

 web上で言うのもなんだがネットによるコミュの促進てそんなに必要なのだろうか?と、思えるときがある。自分は性根が薄情なタイプなのか、最近あまり、必要を感じないのだ。そんなに多くの人とコミュニケートしないといけないのか?それができるなら、極端な話、伝達を軸に考えると、音楽や文学などはいらなくなってしまう様な気がする。コミュが深まれば、深まるほど、コミュ内の関係は均一化し、売り手と買い手なんて、下品な構造が見えて来たりして、一層、人は人の表現やなんかに興味を示さなくなる。既存の売り手が、その危惧から、黙すれば黙する程、気づかぬ内に市場との距離が生まれ、「伝えたいこと」ではなくて、「売りたいもの」と化してしまう。そうなればなるほど内容なんてどうでも良くなっていく。進めば進むほど誰でもよくなっていく。ものごとには「辿り着き方」というものがあるのだ。全てが掘り起こされて明るみに出る時代。それは、走馬灯の様に全て「なかったこと」に向かっていってるようにも見える。また、twitterなどの速度の早い情報と、それに関わる議論がみんなの意思の操作の無い体系ということだと、政治もまた、表現同様、必要無くなっていっている。政治というのは、操作と失敗を前提としないと何もできないからだ。失政は政治の本質なのだ。全てが明るみに出て、その速度が凄まじいあまり、結局何もできないとか、何も産まれないんじゃ、なんのための速度なのか?全ての幻想が打ち砕かれた時、その荒野にはいったい何が立ち上がってくるのか?少し怖い。急速に(少し異常なほどに)需要がへる音楽(CDや配信)や書籍(雑誌から文学に至まで)を見ると、それらがWebに集約されてるとは思えない。音楽や文学はメディアでは無いのに、商品として、ITメディアと競合してしまい、今や壊滅の1歩手前まで来ている。政治でも、化けの皮が剥がれた政界に、哲学の欠片もない不毛の荒野があるなら、誰がTwiiterの情報速度の全てをねじ伏せれるだけのバランスのとれた哲学センスを持って、政界に立てるのか?ユビキタスが人々の意思をもその構造体の基盤に取り込み、最後には「機能」だけがまるで、人類誕生から続く真実かのごとく立ち現れるなら、やはり、悪魔に魂を売り渡してでも、おれ個人は「人」という動物の一種族である道を選ぶ。それだけは譲れない。どんなに時代にそぐわなくても。



2011年9月29日木曜日

運命の分かれ道



営業で町へ出ると、今日も1日生きている人々がいる。どこへも逃げ隠れもできずに、きっと10年後にも、ここで生きているであろう人々がいる。この人達と生きて行こう。そう、思う。冷静に考えれば、メルトダウンの時点で、東日本は取り返しなんかつかないとこまで行ってる。真実なんか、最初からわかっている。反原発のデモの人や政府がどんなにあがいたところで、変らない。変えれるなら、それはもっとマクロなことを、ミクロなところからだ。芝居ががった体制の維持なんかを、役者を振り分けて、やってる場合じゃない。でもそれが、双方の「癒し」あるいは「遊び」もしくは「暇つぶし」になるなら、盛大にやったらいいんだ。そういうのが、人の心には必要だし、そうでもしてないと、押しつぶされてしまいそうになるんだろうから。ガン患者は、ガンの告知で精神的な打撃を受けるが、実際に発病(身体的な苦痛)が始まると、精神的な苦痛に気を取られている余裕など、無いと聞いた。それは、予想を遥かに上回る苦痛であり、健常者には想像だにできないと言われた。嫌な話だが、そこには「生きる」ということの本質が感じられた。「それでも、こういう事態(震災や原発事故)がおきると、人のために何かできないか?と思うんだよ。自分でも信じられない心境なんだけど」と末期ガンの進行を投薬で押さえ込んでる、町の老人は言っていた。それはきっと、苦痛を知ればこその想いかもしれない。

916日。マスタリングに子安に向かう途中、JR稲田堤の駅で南武線を待っている時に、1人の小柄で温厚そうなおじいさん、(片足を少しびっこ気味)が、電車を待つ人々に「これ、私が書いたんです。読んでみてください。」とこの文章の手紙を配っていた。以下。


自然は草木や動物色々な生物を育てて居ります 人も例外ではありません
しかし人は種を蒔いて世話をするから 自分が育てた様に想い 
自然は偶然だと思いがちでありますが自然は人生の師でもあります
原点に返って人生を考えてみたいと思います

宇宙の中に生きる存在として 
人とは何かと云えば自然の中に生きる一種の生きものに変わりはない
ならば自然の動きを見ることに依ってその心を知り
其の心に添うか逆らうかに依って運命の分かれ道があります
こうすれば運が向いて来ると云う希望を持って生きるならば
一層大きな希望と勇気が湧いて来ると思います

生きた草や木は花を咲かせ人にも楽しませてくれます
そして花が散れば美味しい味覚を枝が折れんばかりに成らせてくれます
これが生きた草や木であります
しかし同じ草や木でも縁の下のスカンポは花も咲かず実も成りません
それは外の暑さや寒さを受けないで生きているからであります
人生においてもつらい事から逃れる事だけでこれが幸せだと思って
人として生きる勇気を持たない人生は心も弱くそして花も咲かず
実も成らない様な運命がやって来ます

暑さ寒さに立ち向かい風雨にさらされて育った稲だけが豊かな実りの秋を迎えられます
又倉の中に積まれた米は何時までたっても一粒は一粒
増えることはありません
外に出して田畑に蒔けば何十倍にも成って還って来ます
目に見えない空気の中にも気体分子と云って火に成る分子と水に成る分子また氷になる分子と
色々な分子が含まれています ですから 
それに色々な方法を加える事に依って火にも水にも又氷にも成ると云われて居ります
私達の命にも心という目に見えないものがあり
其の中に怒ったり笑ったりする分子が含まれていて
その者のもつ思想に依ってそれなりの運命がやって来ます

人はみんな生きる為に努力をして居ります
しかし努力をしても間違った思想をもって努力しても無駄になります

人はつらい事があるとそこから逃れようとして
その為に更に苦しみの因を作ってゆくものであります
たとえば不況の苦しみから逃れようとしてアセリ
そしてストレスを溜めて病気の因を作ってゆく事も多いと思います

つらい時も笑顔で支え合いいたわり合って楽しく生きれば
自ずとストレスは消えて行きます
不況や病気は人生の登り坂です
勢を出して笑顔で立ち向かって行きたいものでございます
平静にして待って居ても好運はなかなかやって来ません
だからといって悪に従えば運命に逆らう事になります
笑顔で人生に立ち向かえば必ず好運はやって来ます

山本 たけし(仮名:本名書いてあったんですが伏せさせていただきます。)


※許可を取る手だてがありませんし、頂いたものなので
ここに掲載させていただくことにしました。



最初、なんかの宗教かな?と、思ったんだけど、読んでみて、そうで無いのはすぐ伝わりました。かなり高齢の方でしたが、いろんな方にさり気なくお渡ししていました。1日あけて、ふと、思ったんですが、いや違う、これこそが真の宗教だ!と思い直しました、ご本人は微塵もそんなつもりは無いんだろうけど、何か、自分にもできる事があれば、という想いなんでしょうけど。この、ご老人が宗教だとするならば、この日本にある新旧全ての宗教法人は全て、金利権搾取詐欺団体なんじゃないか?また、でもこの老人は一言も「神」存在を説いてるわけではありません。ましてや「道徳」も、あるいは「政治」も。この、老人の云うところの「思想」こそが真の思う想いであり、それこそが政治とやらの根幹だと感じました。自己保身や挙足取り、立ち回りで隙を見計らうような、全ての政党政治に死を!「死を」というのはちょい強すぎるかもしれないけど。最近は生死を濁しすぎるきらいもあるので。どういうことかと言うと。今や、政治家は政党の方針に縛られず、自己を見つめ直す時代なのかもしれない。と、思うのである。例えれば、自分は人として政治家を見るようになった。民主党はもはや支持しないが、菅直人前首相は今も支持できる。自民党は支持できないが、自民党の中には、まともな事を考える資質の人がいたりする。共産党や公明党のように「人」が見えてこない全体主義的な政党は、存在すら容認できない。つまりは、政党政治そのものが、雁字搦めな要素が強すぎて、考え直す必要を感じてしまう。さもありなん。自分が日頃思うことを、独自な言葉で素直に語る、この老人に、感謝と尊敬の念を強く感じたのでした。

2011年9月12日月曜日

俺マニフェスト

最近6~70年代のイギリスとかのSFとかを読んでいると、ただの科学空想でなくて、社会学空想だったり、経済学空想だったり、教育学空想だったり、とてもユニークなものが多く、刺激を受けます。その柔軟な視点から、昨今の非効率で平等さを欠く利権社会を生み出す最大の理由は、都市や生活構造に、利権を生み出す余地があり、情報伝達速度が飛躍的に進化したにも関わらず、旧態然とした、構造が残っていること。もう一つは戦後教育制度の不完全さに起因する社会に対する考え方の世代間ギャップが共通認識を欠落させ、この国においては、コミュニケーションの手段として、ゲゼル(利益偏重)が機能してしまっていること。なんじゃないかと思ってみた。それを是正するにあたり都市構造の再考から模索するのはユニークだし、未来像を描くという意味では、解り易く、楽しいことなんじゃないかと思いました。
今、一番話題に上る、脱原発は、実はイデオロギーとは何の関係もなく、世界規模で連携して取り組む問題なんじゃないか?特に連携すべきは、アメリカ国民とフランス国民なんじゃないか?と、考えてます。経年劣化を軸に今後想定される事故は多いと考えられるし、より早期の解決を必要とするのは、依存度の強いこの2国だからです。だからこそ、まずはこの国の人達にこそ、脱原発を視野に入れた、都市構造の再構築と、相互依存による経済の相乗崩壊を国際的に議論し、ある一定の制御と自給性への振り分けをきちんと再構築した、新たな世界市場の構築は、地球環境ならびに、資本主義経済の継続のためにも、国際的に早急に取り組むべきだと言いたい。
皮肉にもケーススタディとなった、我が国は、積極的に、新たなる都市構造のありかたを考えだし、その推進を世界に率先して行い、抑制と発展性のバランスのとれた、より高次元な経済国家として生まれ変わり、各国を牽引すべきです!電力は水道同様、公的管理にすべきだし、省庁再編を行う際は、先に述べた転換を第一の目的とし、踏まえるべきです。いち早く旧構造から脱却するためには、2011年版、日本列島改造(そこには里山の保持、治水の見直し、自給性の再構築、エネルギーの効率化がメイン)を考案しましょう。まさに新日本列島改造論を議論したいんです。

緑豊かな国土を取り戻せ!全ての原子力施設を恒久封印せよ!

日本列島改造せよ!w。

世界経済グローバリズムの主旨を利益依存(ゲゼル)から相互扶助へ転換せよ!

現在の豊かな暮らしを守るために!

例えば、情報伝達速度が飛躍的に進化した、現在において、道路、鉄道、などの交通網はより効率化(削減)できるはずです。国全体のエネルギーの効率化は都市構造全体の改造が必要です。1都市集中型の構造は現在のテクノロジーを踏まえると非効率だと思います。

おもしろいので、この俺マニフェストにそって、現代版「ユートピア」論。日本列島改造論を。サイエンスフィクションとして、楽しく考えていこうかな。

最近はこんなことばっか考えちゃうんです。

2011年9月11日日曜日

THIS HEAT 〜自分にとっての音をめざして

秋なのに残暑で蒸しかえる9月頭、盆に帰れなかった故郷、木更津に1泊2日で帰省。親父が待ち構えていた。311以降では初めての再会だからか?一晩中いろんな話をした。ちなみにうちの親父、昭和6年生まれ、目黒区の出身で、大東亜戦争をモロに東京で向かえた世代だ。敗戦当時15歳、価値観の大転換を知る世代だ。木更津の山間、新興住宅開発が進んでるとは言え、まだまだ里山面積の大きい田舎、ここじゃ虫が完全に主役。四面楚歌ならぬ四面虫歌。父親と寝ないで語り明かした末の結論。この国は滅びと誕生を恐れ、なくしくずしに腐ったまま延命しょうとしている、となった。養分になることを拒み、まるで国全体が処分不能の産業廃棄物になろうといている、まずはそれをなんとかせんとな。ということだ。その延命は滅びよりも緩慢で怠惰、だんだん、いっそうそれぞれが利己化し、ただ、ひたすら人は心を腐らせていく、不毛の荒野を進んでいる現状である。

話の主は。この国が一流だったのは「経済」だけだったという話にも及んだ。一流の経済ついては、様々な国が尊敬と感謝の気持ちがあるかもしれない、しかし、経済のみの付き合いというのは、ただ、「金」の付き合いがあるというのと、同じだ。それが失われれば、この国には何も残らない。政治をはじめ、全てが三流以下だ。という話だ。
また、管前首相に対する評価がおれと偶然にも同じだった、「いろいろ手を回して、人を動かす事は不得意で、政治家には向いてないけど、理系出身特有の、本質に最初に辿り着く感覚や(事態の掌握はできなかったが、首尾一貫原発を危惧し、東電の隠蔽体質について、最初に国営化すべきと発言した。)不慣れゆえ、慣れない周りへの気遣いなんかしていたけど、ポイントは外さなかった。」というところでは、意見が一致した。具体的には2つの点で、厚生大臣の頃となんら変らない合理的な判断を下した。(1)何はともあれ、メルトダウンの事後報告(タイムラグのあまりに大きいこと)を受けて、即刻、全国の原発を止める判断を下た。(2)実現はこれからとしても、脱原発でエネルギーをどうにか考える国の方向性を諸外国に示した。これら首相でなければできない行為だ。

では、野田内閣はどうだろうか?表向き、管の明言を踏襲すると言っているが、自分には緩やかな軌道修正内閣に見える。頭から細野発言、さらに、通産大臣の辞任劇。自分にはどうにも、野田内閣は芝居が過ぎる気がしている。福島復興という命題の既成事実化(その責を棚上げに本質をあえて濁すやり方)さらにつつづけて、メディアぐるみの如何にも見え透いた、既成事実化の補強(下手なことを言えない空気の演出)として、鉢呂発言と辞任劇。これらは全て隠れた命題、自公との大連立の布石に思えてならない。皮を切らせて、骨を守るというか。野田内閣には前内閣の失敗の教訓を生かし、的確かつ巧妙な策士(シナリオライター)がいるように感じる。既成事実の積み重ねで、我々の意思であるかのごとく事を進めるためのシナリオであり、一見マヌケに見える言動にもすべて裏のとれた意味を感じる。戦国時代の策士さながらの民衆操作だ。野田内閣に唯一期待があるとすれば、民主党の最初からの命題、今回も小声で公言してた、増税前に政府運営の経費削減(主は国家公務員削減を視野に入れた法改正と、省庁の運営見直し)簡単に言えば、公務員切りの法改正と省庁の再編は抱き合わせで同時、それで官僚の頭切りを行うこと。これも、内閣ができた冒頭の腑に落ちない展開を見ると、どうにも怪しい。親父に借りて今読んでる本に、『なぜ日本は没落するか』森島通夫(岩波現代文庫)に、こうある。歴史はこのように進行する。将来像(シナリオ)は最初確率的なものとして与えられ、どのような像も、その将来時点に達するまでは危険を含んだものであるが、現実にその時点に達してしまうと、すべての危険は消え去り、現実は動かし難い確定したものとして、われわれに対して佇立している。」(森島通夫)炭取りがどこで回るのか、(シナリオと現実がクロスするX点)を、注視しないとならない。このままでは、元の木阿弥どころか、まるで最初から放射能があったかのごとく、それに対応する日々を迫られるという事態になりかねない。その中には、復興のために、原発再稼働という最悪のシナリオも含まれていないと、どうして言えようか?そのためには、反原発を福島復興の妨げになる刹那的な行為と断定し、一般世論を段階的脱原発という絵に描いた餅に収束させるシナリオが見えてくるのだ。高速道路の無料化と同じく、実現不能な立て看板にすり替える気ではないのか?

目線を少し大きく広げよう。放射能の残存は、この国の食料の自給を一層困難にすると思われる。もし、それにも大きな意図があるなら、の後、新手の奴隷船でもやって来るのだろうか?その船にIMFとかの旗が掲げてあったらぞっとする。先に書いたように、今後「経済」というカードを失った後、三流国となるこの国を、味方に(というか市場依存に)とどめておくためのおそろしいストーリーだとしたら?TPPもそれを睨んで打たれた施策なのか?とさえ勘ぐってしまう「市場」という名の奴隷国家でいろと。こう、書くとすぐ「それは某国の陰謀だ!」と話がひろがりがちだが、違う!あからさまな表が首謀とは限らないのだ。真実は一見敵対する国にもいる勢力との共謀して、この国の自給力を根絶やしといったところだろう。正直、相手は国家でなく、利権集合体だと思うのだ。国境は無い。そこには我が国から離脱しようとしている、我が国の企業体も含まれている。あるいは宗教団体も。でも、豊かなで便利な生活、「消費奴隷でいつづける」ことを望む人々も沢山いるのだろうから、いや、むしろ、それが主流だろうから、平和を乱す考えなのはおれの方なのかもしれない。でもそれは勘違いではないか?この国のゴールドカードの有効期限は間近なのに、みんなまだ使えると思い込んでいるのではないか?ゴールドカードが失われれば、こんな小さく、卑劣な国など、誰が顧みるものか!ただの荒んだゴミの島だ。そうして怠惰に命を貪りつづけ、国土が腐るままにお祭り騒ぎをつづけるのだろうか?これを書いているのは2011年9月11日、そう、あのアメリカ911テロから10年目だ。何故?世界貿易センタービルだったのか?その後それを教訓に利権集合体はより強固に巧みにスケープゴートを産み出し、先の震災においても想定外の天災(?)を誰独りとして謙虚に受け止められないような構造を作った。それぞれが、それぞれの思惑で利用こそすれ、次世代の体内を蝕む毒(地雷)だけが残される。これが、「俺たち」の意思なら、911,311にうわべの祈りなどできない、自分も含め、体半分は被害者ではなく、加害者だからなのだ。あの2つの悲劇は俺たちが招いている。これは、揺るがない。それでも「負け犬の遠吠えはやめろ。」と。「嫌なら這い上がれ」と。「こんな自由の世界を乱すな」と言われるのだろうか?おれ個人は土下座してでも乞いたい「~その螺旋を登るのは嫌です。~という選択肢をください。たいした力などありませんから、なんの影響力も無いですから。」と。







もし、問題の根にあるのが、原発を遥か通り越して、都市や生活のありかたに及ぶとなると、もう、トーマス・モアの「ユートピア」まで戻って、再考しないといけないのだろうか。世界の都市や生活は多少の違いはわれど、今や、基本構造は同じ(というか同じにすることで市場形成されてる)なのだ。それは、たとえば旧来のこの国(日本)の里山構造とは、最初から矛盾を内包している。日本は先んじていたが、その後、近現代都市化が進められ、世界の都市と生活形態がここまで統一されたのは、ここ30年の話だ。その構造は相互依存を前提としており、世界中の都市や生活は後戻りの困難なとこまで来てしまっている。日本において、震災及びそれ以降起きている問題は、等しく世界の都市構造や生活にも、そのまま起こりうる問題として、おれらの想像以上に動向が世界中の人々から注目されているんだと思う。ということは、都市構造と生活のどの部分を従来の流れのまま、世界構造との互換性のある部分(市場)として機能させ、どの部分を自立性を維持し自給力を高め、相乗崩壊を阻止できるよう変えていくか?主査選択になるのだろうか?そもそも制約された範囲での市場参加というのが可能なのか?かつては(というか30年くらい前までは)統一規格化されてないが故のなりゆきで、制約があった(それはそのまま、先進、途上、という都市のグレード格差みたいに言われたりもしていた)あるいは宗教、体制的な違いによる制約もあった。国境無き利権集合体みたいなものも、この構造が生み出してる側面もあるのか、あるいは意図的に構築されているのか?まあ、でも、いつの時代でも、その時代の構造の中で、そういう奴らは生まれている(というか辿り着いてしまっている)のかもしれないが、それではまるで永遠の階級闘争みたいな話か?疑問ばかりだ。なんでこんな話するかというと、「この螺旋は幻想です」というのは易いが、後頭部をプラグで繋がれたまま、夢見るように、野山を心のみで妄想するような、自己完結の仕方が腑に落ちないだけなのだ。未来は変えられる。すべては人が頭で考えだして作り上げたものにすぎない。それは、全くその通りなんだけど、自身の生活を濁り無く見つめることが、そのまま、世界全体を見つめることになっちゃう時代なのだ。10年前に2機のジェット機で、まさに、世界貿易センタービルに突っ込んだ奴や、こないだ銃殺された、オサマビンラディンと、「そこ」んとこ、話してみたかった。どう、考えているのか?あるいはいたのか?その、性急すぎる行動の裏にあるのは、単に宗教的心情なのか?どうなのか?そんな過激なテロ行為にいたる前に、1晩酒でも呑みながら、尋ねてみたかった。


いったい世界をどう考えていたのか?と。


最近はレゲエを聴きながら、おれの中にもJahがいればいいのに。と、真剣に思う。切実だ。でもおれの中にはいない。この国に生まれて、真剣にラスタファリアンに近づきたいと思うなら(ファッションや趣味、学問で無いのなら)、自分の中の「Jahの不在」からはじめないとならないんだなあ、と思う。おれの中にはいない。今後もいないと思う。なら、自身でおれに合った形で練り上げないとならない。あの小さな国、ジャマイカは信じられないほど荒んで、どんな国際社会からも相手にされないような貧相な国からは、人の心に力を与える無類の「音楽」が次々産み出されている。肉体(自給力)を奪われてなお、躍動する生命が迸る。この国(日本)の人々はレスポンスを返さず、ただ、それを消費している。それが歯がゆい。ただのSEXの前戯の秘薬みたいな、「欲望と自己正当化」の道具としてのみ、使っている。それは、そういう側面があってもいいのだが、あれは諸刃の剣であり、欠落している部分を完全に無視するのは、「音楽」として聴いてないのと同じだ。そう思うと、そこに向かって自ら音を放つ時、この国で、どんな理不尽な対応を受けても、受け入れられると思える。音楽だけでも、自給自足しなければ、と思うのだ。70年代、UK。スタジオで、上下左右を真撃なレゲエバンドにかこまれて、チャールズヘイワード率いるTHIS HEATが自分にとって真実の音を目指して音を奏でたように。

(以下ウィキペディアより抜粋)
※ディス・ヒート (This Heat) は男性3人によって構成されるイギリスポストパンクバンドである。1976年ロンドンブリクストンにて結成、1982年に解散した。

概要 [編集]

グループが結成された1976年から1stアルバムが発表された1979年にかけてのイギリスのミュージック・シーンは、アート・ロックグラム・ロック等から、パンク・ロックニュー・ウェイヴへの大きな転換期にあたる。そのような時代に、ディス・ヒートは、特定のジャンルに分類することが困難な独自の音楽を展開していた。その音楽は、しばしば孤高という言葉で形容される。
ディス・ヒートの音楽を特徴づけていたのは、チャールズ・ヘイワードの強靱なドラムスであったといえる。ディス・ヒートは1982年にギャレス・ウィリアムズの脱退に伴って崩壊し、メンバーは他のグループやソロで活動を続けた。チャールズ・ヘイワードは、キャンバーウェル・ナウを結成し数枚の作品をリリースした後、ソロ活動を行っている。ギャレス・ウィリアムズは、2002年に亡くなっている。

メンバー [編集]

  • チャールズ・ヘイワード - Charles Hayward (ドラムス等)
  • チャールズ・バレン - Charles Bullen (ギター等)
  • ギャレス・ウィリアムズ - Gareth Williams (ベース等)

作品 [編集]

  • This Heat (1978年 アルバム)
  • Health And Efficiency (1981年 12"シングル)
  • Deceit (1981年 アルバム)
  • This Heat with Mario Boyer Diekuuroh (1982年 Albert Marcoeurとの片面ずつのカセット)
  • Live In Krefeld (1986年 カセット)
  • The Peel Sessions (1988年 シングル)
  • Repeat (1993年 アルバム)
  • Made Available (1996年 アルバム)
  • Out of Cold Storage (2006年 6枚組ボックス・セット)